厳しいしごきも夢があるからやめなかった。ジャパン女子OGユウ山崎のプロレス人生
いまから39年前の1986年、全日本女子プロレスの独占状態が長らく続いていた女子プロレス界に第2団体が誕生した。元・全女のジャッキー佐藤、ナンシー久美に加え、柔道日本一の神取忍、シュートボクサーの風間ルミを四天王に船出したジャパン女子プロレスだ。ジャパン女子は芸能界ともタイアップ。当時、社会現象となっていたアイドルグループ、おニャン子クラブをプロデュースした秋元康をアドバイザーに迎え華々しく旗揚げ、「全女=女子プロ」という世間の常識に一石を投じたのである。
ジャパン女子の選手は知名度、実力ともに高い四天王のほかは、新人で固められた。ここからキューティー鈴木、尾崎魔弓、ダイナマイト・関西らトップスターが輩出されるわけだが、今回本欄に登場するユウ山崎も、ジャパン女子の黎明期を支えたレスラーである。
プロレスのキャリアは約5年と決して長くはないものの、軽量級戦線を盛り上げた山崎。引退後はシュートボクサーに転向し、現在はボディメンテナンストレーナーとして活動中。そんな彼女に、「プロレスを経験した人生」を語ってもらった。

写真:本人提供
「中学生くらいのときに、父親がテレビで女子プロレスを見ていたんですよ。最初は、女子プロを見てる父がすごくイヤだったんです。女の人がギャーギャー騒いでるのを見て、なにがおもしろいんだろうって。でもあるとき新人の密着特集を組んでいて、そこに出ていた長与千種さんをなんてカッコいいんだろうと思い、ハマっていきました。それに、私には1歳上のがたいのいい兄がいて、よくいじめられていたというか、ケンカで投げられてばかりだったんです。それで、プロレスやったらコイツを倒せるかもと思ったんですね。カッコよくて強くなれて、お金持ちになって家を建てられるかもとも思いました。それでプロレスラーになろうと決めて、自己流でトレーニングを始めました。高校1年生くらいのときですかね」
当時、全女の事務所が彼女の通う学校から歩いていける距離にあった。学校を早退、あるいは遅刻して選手を見に行ったりもした。クラッシュギャルズブームのさなか、新人たちにもファンが群がる光景を目撃。たとえば北斗晶になる前の宇野久子。女子レスラーへのあこがれが日に日に増していった。
その頃、山崎と同じようにレスラーを夢見るプラム麻里子と知り合い、情報を交換し合う仲になった。2人とも全女に応募も、あえなく不合格。その後、プラムの方から新団体設立の話を聞いた。プラムに誘われ、山崎はジャパン女子の練習生になったのだ。

写真:本人提供
「マリちゃんと一緒に練習に行くようになりました。当時はお金さえ払えば練習生にはなれたんですよ。ジャパンはそこからオーディションに進むシステムだったんですね。それであるとき、私たち、すれ違いざまにジャッキーさんに言われたんです。『オマエさんたち、練習生だからって受かると思うなよ。ここから先が簡単じゃねえぞ』みたいに」
気を引き締めた2人は、道場でのトレーニングに加え、バイト終わりに大学の体育館を借りて体操の練習もおこなった。そのかいあってか、オーディションに2人とも合格。しかし、ここからがまたジャッキーの言う通り、簡単ではなかったのである。まず、家族に伝えていなかった。オーディション合格者は入寮が求められる。それには親の承諾が必要だ。
「父から『甘い世界じゃないしオマエみたいな小さいヤツにできるわけがない』と言われました。それでもあきらめない私に父は、『腕相撲で勝ったらいい」と。そんなの無理だよと言ったんですけど、『オマエよりデカいヤツと闘うのにオレを倒せないでどうする。オレを倒してからいけ』って。父も身体が大きい方なんです。私は半泣きで顔を真っ赤にして挑みました。父は両手でやるのは許してくれました。でも絶対に無理ですよ。だけど、私が勝ったんです。実は、父は明らかに手を抜いていたんですね。そして、『絶対に泣き言を言って戻ってくるな。約束できるならいいぞ』って。それで正式に入門できたんです』

写真:本人提供
夢のレスラー生活の始まり。ところがそれは、いまではコンプライアンスに引っ掛かりまくるようなしごきの連続だった。練習中に水は飲めない、換気もできない。それが当たり前の時代。練習はもちろん、私生活でもさまざまな理不尽な目に遭ってきたという。
「あるとき、バックレようかという話になって5人で脱走したときがあったんです。マラソンのふりして逃げたんですよ。お寺で寝て、目が覚めたら我に返って。お金もないし、帰ろうかとなって。戻ったら戻ったで、すごい怒られました。見せしめにされるようなこともあったり。なんでやめなかったか? 親との約束もあるし、あの頃は夢があったんですよね。家を建てるとかクラッシュみたいになるとか。そもそも私にはこれしかないし、せっかくのチャンスを無駄にしたくなかったんです」

写真:本人提供
そして迎えたデビュー戦。山崎はプラムとのシングルでプロレスラーとしての産声を上げた。そしてデビューから2年後、メキシコ遠征に出ることになった。
「会社から行けと言われて、最初はイヤでしたよ。でも1週間くらいならまあいいかって。しかも3人だから、みんなで一緒に帰ってこれるし。また、リングではどうしても尾崎に勝てなかったんですよね。これを機にメキシコに行って帰ってくれば、状況を変えられるかもと思ったんです」
当時はまだメキシコ遠征が珍しい時代。女子選手だけに、前例の少ない、ましてやジャパン女子ではほとんど初めてのケースだっただけに不安は大きかった。それでも現状打破のため思い切ってみたのだが…。
「私だけ帰国命令がないんですよ。1カ月、2カ月たっても連絡がない。当時は国際電話も高いし、こちらからかけても話が進まないまま終わってしまったり…」
実は、忍者のようなファイトがメキシコで受け入れられ、現地のプロモーターから気に入られたのだ。そして、89年2月に新設のUWAジュニア王座を戴冠してから帰国。5月には尾崎からジュニア王座を奪取し、2冠王となった。が、91年に引退。いったい何があったのか?

写真:本人提供
「メキシコのリングって堅くて、日本のは柔らかい。その違いもあってヒザをケガしたんです。ヒザが陥没してしまって、診察によると、これ以上になると一生歩けなくなるかもしれないと。それでリングを下りたんですけど、辞め時でもあったんですよね。会社の経営状況が悪くなっていて…」
91年10月に数名が退団したが、それと山崎の引退は無関係だという。結局、翌年1月にジャパン女子が解散。その後、JWPとLLPWの2派に分裂も、すでに山崎はプロレスから去っていた。引退試合もセレモニーもなく、静かにフェードアウトしていたのだ。よく言えばゴタゴタに巻き込まれることもなく、解散も傍観者として見ていたのである。













