【編集長コラム】「引退・中西学の生涯プロレスラー宣言」

「野人」中西学が引退した。見事な引き際を飾った。

1992年バルセロナ五輪のレスリング日本代表という金看板を担っての新日本プロレス入り。現地で取材していた私は、残念ながら敗退が決まった中西に「プロレス入りですか?」と直撃した。

プロ入りは既定の事実だったが、正式発表の前だったからか「今後のことは、まだ、決まっていません」と、生真面目に答えてくれた。

その真摯な姿勢は、驚かされるほどだった。果たして、新日本プロレスの一員になっても、すべてのことに真正面から取り組んでいた。

1999年のG1決勝で、武藤敬司をアルゼンチンバックブリーカーで担ぎ上げた。日曜日の夕方、全国に生中継されたテレビ解説席で「新時代の到来ですね」と、熱く叫んだことを覚えている。

見事な初優勝。第三世代で最初に栄冠をつかみ、出世レースの先頭に飛び出した。このまま一気に三銃士から天下を奪い取りかねない勢いだった。

ところが、格闘技イベントとの距離感を定めきれなかった新日本プロレスの中で、中西始め第三世代は翻弄される。「天下をつかみ損ねた男たち」という見方もある。

それでも、天山広吉、小島聡、永田裕志そして中西は全員がG1を制し、IWGP王座を獲得している。

G1を4人の中で最初に制した中西は、IWGP王座取りでは、最後になってしまった。42歳での初戴冠に、山本小鉄さんが涙で祝福。会場に詰め掛けたファンも「大・中西コール」で喜びを共有した。あの幸せな空間は、今でも語り草だ。

レスラー人生どころか生命の危機に陥った首の大ケガからも、一年半の長期欠場を経て、見事に復活を果たした。

テレ朝動画「人類プロレスラー計画 中西ランド」で、ご一緒させてもらった。激辛の食事にトライし、変わり種スポーツをともに楽しんだ。クイズコーナーでは、二人で最下位を争った。中西の母校訪問にご一緒したり、格闘技の体験入門に「普段、運動を全くしてないオジサン」という立ち位置で加わった。

様々な貴重な体験をさせてもらったが、中西の共演者への細やかな気配り、優しさには何度も癒された。

「野人」というのは、あくまでリング上のファイトスタイルに限ってのこと。普段はスマートな言動で、その場を和ませてくれる。「座長」そのものだった。

「一度、プロレスラーになったら、死ぬまでプロレスラー」と引退試合後の挨拶。これほど中西学の生き様を語る一言はあるまい。

そこには黒のショートタイツ一枚で仁王立ちの中西。サポーターひとつ着けていない。「ストロングスタイル」の権化がリングを降りた。

中西は一度去ったリングには、決して戻って来ないだろう。だが、いつまでもプロレスラーの誇りを持って、これからの人生も力強く生きて行くのは間違いない。

第二の人生に幸多かれと切に願う。

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