圧倒的存在感を放つ女子プロレス界の「レジェンド」アジャコングの戦い続ける覚悟

アジャコング――その存在感と圧倒的な強さで女子プロレス界を代表する「レジェンド」として君臨し続けてきた。

東京都立川市で生まれ育ち、幼少期から混血ゆえのいじめや家庭の問題と向き合いながら、アジャはその苦悩を力に変えてプロレスの道に進んだ。

アジャの壮絶な生い立ちは、リング上での闘志の裏にある深い背景を感じさせる。

アジャがプロレスの世界に足を踏み入れたのは、1986年、全日本女子プロレスでのデビュー戦だった。

新人時代は「極悪同盟」のブル中野の付き人を担当し、その後ブル率いる「獄門党」の一員としてヒール(悪役)として恐れられる存在となる。

しかし、入門当初の本心ではベビーフェイス(善役)として憧れの長与千種と戦うことを夢見ていたアジャは、心の葛藤を抱えていた。

そして悩みを抱えているアジャにある時、通りかかった長与からサングラスを渡され「このサングラスが似合うヒールになって長与千種のところまで上がってこい!」という励ましを受け、ヒールの道を歩み続けることを決意した瞬間があった。

この出来事は、アジャのプロレス人生におけるターニングポイントとして語り草になっている。

アジャコングは、バイソン木村とのタッグ「アジャ&バイソン」で男性ファン層を拡大し、1990年代に大きな注目を集めた。

特に獄門党を離脱してジャングル・ジャックを結成したことで、ブル中野とのヒール対決が注目を浴び、全日本女子プロレスの勢いを支えた。

1990年11月の金網デスマッチでは、流血戦の末に金網最上段からのギロチンドロップを受けて敗北したものの、その壮絶さがファンの記憶に深く刻まれる結果となった。

この試合は女子プロレスで初めて『週刊プロレス』の表紙を飾り、今でも語り継がれる伝説の一戦となっている。

団体対抗戦では、アジャがWWWA世界シングル王者としてJWPのダイナマイト関西と対決し、さらにFMWの工藤めぐみとも因縁の対決を果たした。

この際、師匠ジャガー横田がリングサイドで見守り、試合後に感謝の言葉を贈られたジャガーは成長した教え子の姿に涙を流した。

1995年にはWWF(現WWE)の「サバイバー・シリーズ」に参戦。

チーム・フェイの一員として、アランドラ・ブレイズ率いるチーム・ブレイズとのエリミネーションマッチに出場し、ブレイズを裏拳で倒す活躍を見せた。

これによりアメリカでもその名を知られるようになったアジャは、全女の後楽園大会で「WWF出場は夢だった」と感慨を語り、現地でもらったグッズをチャリティーに出品するなど、ファンへの感謝を示した。

その後、アジャは全女を退団し、フリーランスとして新たな戦いの場を求めた。

1997年に設立した『アルシオン』ではファイティング・プロデューサーとしての新たな道を切り開くも、やがてGAEA JAPANやハッスルなど男子プロレスの舞台にも進出。

そして、OZアカデミーでは、2007年に初代無差別級王者の座を獲得。その後もジャングル・ジャック21を率い、尾崎魔弓らと熱戦を繰り広げてきた。

アジャの得意技である裏拳は、相手に与える破壊力だけでなく、観客の度肝を抜くそのインパクトから、アジャコングの代名詞とも言えるだろう。

裏拳を前に突き出すその瞬間、誰もが息をのむ。この必殺技を通じて、アジャはリング上の支配者として君臨し続けている。

プロレスだけでなく、アジャはタレントや女優としても活動しており、バラエティ番組で見せるコミカルな一面もアジャの魅力のひとつだ。

「WAHAHA本舗」に所属するアジャは、笑いと暴力が交錯する独特のキャラクターを大切にしている。

劇場での演技、そしてリングでの激しい戦い、そのどちらもアジャにとっては表現の場に他ならない。

長年プロレス界を駆け抜けてきたアジャコングは、まさに「戦う表現者」としてこれからも輝き続けるだろう。

現在も数多くの団体に上がりながら、若手選手に影響を与え続けている。

プロレス界の厳しい現実に立ち向かい、耐え抜いてきたアジャの姿は、多くのファンを魅了し、そして後輩にとっての目標であり続けている。

プロレス界の「重鎮」としてその名を轟かせるアジャコング。

アジャの背中を追う若手レスラーたちは、今日もリングの上で力強いファイトを繰り広げ、アジャの偉大な足跡を刻んでいる。

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