生誕百周年にして感じる力道山の偉大さ 日本そして日本国民を勇気づけたプロレスの父
※藤波辰爾と敬子夫人〈写真提供:柴田惣一〉
あの人がいなかったら…。日本プロレス界の開祖・力道山の誕生日が11月14日で、今年は生誕100周年。敬子夫人が中心となった記念パーティーが9日、都内のホテルで開催。14日には東京・池上本門寺の墓前で感謝の集いが百田光雄・力親子によって催された。
記念パーティーには王貞治、張本勲、江本孟紀らプロ野球界のレジェンド、グレート小鹿、藤波辰爾、小橋建太、佐々木健介・北斗晶夫妻、新間寿ストロングスタイルプロレス会長らプロレス関係者、歌手の佳山明生、沢田亜矢子ら芸能界からも多くの人たちが出席。亡くなって60年を過ぎた今でもこれだけの人々が集まる。そして力道山の偉大さ、豪快な人柄を振り返るのはすばらしいことだ。
※王貞治氏と敬子夫人〈写真提供:柴田惣一〉
王は「日本に元気がなかったころ、外国人をなぎ倒してくれた。当時の日本にとっては痛快な出来事でした。このごろは大谷(翔平)のことが大きく扱われているけど、あの当時では今の大谷を超えるスゴイ事だった」と挨拶。会場には万雷の拍手が巻き起こった。
感謝の集いでも息子・光雄が「あれだけの人たちを喜ばせた。今でもこうして見守られている。息子としても誇り」と感慨深げだった。
力道山は大相撲からプロレスラーに転身。日本プロレス協会を設立し、プロレス大会を開催した。木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した1954年2月19日、東京・蔵前国技館決戦は語り草。まだまだ敗戦ショックに打ちひしがれていた日本そして日本国民に勇気を与えてくれた。
プロレス中継は53年にスタートしたテレビ放送の看板番組となり、街頭テレビに群がる市民たちを熱狂させた。敵国の大男を空手チョップでなぎ倒すその勇姿は、戦後復興のシンボルであり原動力だった。
※パーティーで配布された力道山の勇姿〈写真提供:柴田惣一〉
当時、テレビは庶民には手の届かない高級品。テレビが置いてあるそば屋は、プロレス中継がある日は料金が2倍、3倍になった。それでも力道山見たさに人々が殺到し店内には人があふれた。まるで立ち食いそばの様相を呈したという。
戦争で身内をなくした人、日本へ帰国はしたものの体が不自由になってしまった傷痍軍人、空襲で家も財産も何もかもなくした人なども多く、涙も枯れ果て虚無感と明日への不安しかなかった失意の敗戦国に、明るい光を与えたのが力道山だった。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木ら弟子も育成し、日本にプロレスを根付かせたが、63年12月15日に不慮の死を遂げた。
力道山の容態は毎日、新聞が詳細を報じた。腹部の手術後におならが出たという記事まで大きく掲載された。おならが出て良かった、と報じられたのは力道山ぐらいではないだろうか。順調に回復に向かっていると思われたが、亡くなってしまった。当時を知る人は「それはもう悲しかった。あんなに強い人が亡くなるなんて」と、かなりのショックだったと残念そうだ
来年2025年は昭和100年。昭和となれば、改めて力道山の功績が取り上げられるはず。
※力道山に感謝する佐々木健介・北斗晶夫妻〈写真提供:柴田惣一〉
パーティーで乾杯の音頭を取った健介・北斗夫妻。本当に突然のご指名だったようでアタフタしていたが、その中で北斗の「プロレスラーになれたのも、いろんな人たちに出会えたのも、引退後もタレントで活動できるのも、すべてプロレスがあったから。そのプロレスを日本に作った力道山先生のおかげ。本当に感謝しています」という言葉がすべてを物語っている。
「井戸を掘った人を忘れるな」という。水を飲む時は井戸を掘った人の苦労や恩を思えという意味だが、北斗のスピーチを聞いてその言葉を思い出した。(敬称略)
※記念ラベルの日本酒〈写真提供:柴田惣一〉
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