大巨人アンドレに献杯 ジャイアント・マシーンでも大暴れ 一度杯を交わしたかった 

【柴田惣一のプロレス現在過去未来】


(※1970年に来日した大巨人:写真提供・柴田惣一)

「大巨人」「人間山脈」「一人民族大移動」「世界八番目の不思議」…様々な異名でプロレスファンに限らず、世界中の人々に知られていたアンドレ・ザ・ジャイアント。1993年1月27日に46歳で亡くなった。

1964年にレスラーデビュー後、世界中のマットで大暴れ。223センチ、236キロの巨体からは想像もつかない運動能力を披露し人気者となった。


(※1970年に来日した大巨人:写真提供・柴田惣一)

 海外マットでは子どもたちと一緒にリング上で陽気に踊るなどして人気者だった。なぜか日本では悪党ファイターとして通していた。日本人嫌いと言われていたが、そのきっかけは諸説ある。70年に初来日した際に、そのあまりの大きさ、迫力に「バケモノ」とささやかれたという。

「バケモノ? どういう意味だ?」と聞かれた人が「モンスター」と答えた。決して悪い意味ではなく、レスラーとしての誉め言葉のつもりだったはず。

ところが「モンスター」と呼ばれることを心底から嫌っていたアンドレは、カチンときてしまった。プロレスラーとして「日本、そして日本人嫌い」に徹することを決めたという。


(※1970年に来日した大巨人:写真提供・柴田惣一)

実際、怖かった。インタビューを申し込んでも「ゲラウエイ!」(アッチ行け)と追い払われてしまう。あの狂虎タイガー・ジェット・シンでさえ、上田馬之助とともに短い時間の受け答えはしてくれた。最後はサーベルで襲われたが、何度か話を聞いている。

だが、アンドレは受け入れてくれなかった。団体を通しても「ダメだ、と言っている」と断られ続けた。突撃でもしようものなら、鬼の形相で追い回されてしまった。アンドレはあまりの巨体ゆえ足は遅かったので、逃げられたが、生きた心地がしなかった。


(※新日本プロレス50年の歴史を辿る巡回展「シンニチイズム」より)

アンドレがマスクを被ってマシーン軍団入りしたことがある。その名もジャイアント・マシーン。若松市政マネジャーの号令一下、何とも楽しそうに暴れていた。誰がどこから見ても、これほど正体がバレバレなマスクマンはいなかったが、プロレスの魅力を再認識したものだ。

親しくしていた日本人女性を見かけたことがある。とても小柄な方で驚いたことをハッキリ覚えている。

酒豪伝説は数知れず。ビールやワインをまるで水を飲むかのように一気に飲み干していた。色々な街の居酒屋で「もう在庫がありません。勘弁してください」とお代わりを断られていたという。


(※新日本プロレス50年の歴史を辿る巡回展「シンニチイズム」より)

良く知る人からは優しく、気配りのできる繊細な人だったと聞く。だがシン、黒い柔術師・ブッチャー…大概の悪党外国人選手とは杯を交わしたが、アンドレには近づけなかった。

猪木のアームブリーカーにアンドレが初めてギブアップした一戦(86年6月17日、愛知県体育館)を取材。世界初の快挙を伝える記事を書いた日が蘇ってくる。

大きかった。強かった。怖かった。プロレスファンの記憶に鮮明に残るアンドレの勇姿。忘れえぬ名レスラーだ。アンドレの好きだったワインで献盃。(敬称略)


(※新日本プロレス50年の歴史を辿る巡回展「シンニチイズム」より)

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