メキシコで21年目を迎えた日本人ファイターOKUMURA「CMLLへの感謝の気持ちは計り知れない」
毎年恒例の新日本プロレスとメキシコCMLLとの合同シリーズ『FANTASTICA MANIA』(ファンタスティカマニア)が今年も大盛況で幕を閉じた。このシリーズ開催にあたって、両団体の懸け橋になっているのがOKUMURA選手だ。彼の存在なくして、この大会の実施、継続はなかったであろう。今CMLLは新日本のみならず、アメリカのMLW、AEW、イギリスのRevProとも交流関係にあるが、そこでも重要なキーパーソンとなっているのがOKUMURA選手だ。そこで日本に帰国したOKUMURA選手に話を聞いた。【インタビュー:前編】
(聞き手・文=ミカエル・コバタ)
――メキシコに渡ったのは2004年でしたよね?
「ハイ。ネコさん(故ブラック・キャットさん)の紹介で、2004年5月14日にCMLLに行くためにメキシコに行きました。もちろん、そういう紹介がなければとても入り込める世界ではないので。ビザが下りて、5月30日にデビューしました。デビューして、ずっとCMLL一筋で今に至ります。当初は1年の予定で行ったので、1年やってダメなら廃業するつもりでしたので、まさか21年もいるとは思ってなかったし、いれるとも思わなかったです。安易にいれるような世界ではないので。同じことをもう1回やれと言われても無理です。そういうシビアな環境ですけど、日々一生懸命やってきて、日本に帰る気は全くありませんでした。日本に帰らなかったことは今も後悔はしてないです。大変なケガを何度も乗り越えてきたんで、CMLLへの感謝の気持ちは計り知れなくあります」
――OKUMURA選手が日本で元々やっていたスタイルとは違うのに、これだけ長くいることができた一番の要因は何ですか?
「頭を切り替えて、やったからです。メキシコには星の数ほど数えきれないプロモーションがあって、そのなかで中央に出られるのはわずかしかいない。そのなかでCMLLに入り込むのはとても低い確率のなかで、自分はネコさんの紹介があったので入ることができた。最初の練習で衝撃を受けて、やってきたことと全く違うことだったので。スタイルが違うので比べることはできないですけど、初日の練習で『これはただごとじゃないな』と思いました。今までやってきたことはリセットしてやらないと、ここで生き残っていけないのに気付きました。その後、ビザが下りて試合ができるようになったとき、自分の使われてるポジションが自分の器に合ってないということが分かったんで。これは練習して、覚えてやっていかないと生き残ってやっていけないと気付いたんで。ウサギと亀じゃないですけど、コツコツとやりました。それがあったからだと思います。それがなかったから今この場所にはいないです」
©新日本プロレス
――言葉も分からない、生活環境も違う。その辺を含めてやっていけそうと思ったのはいつ頃ですか?
「最初にネコさんから言われたのが、CMLLはオールドスクールだから、練習に参加しないと試合が組まれないと。絶対練習は出て真面目にやりなさいと言われました。自分の器に合わない形で試合が入ってきて。コツコツ練習に通って、地方遠征に行って、朝に帰ってきても、練習には出て。それだけではなく、ここでやっていくために言葉を覚えなきゃいけない。なぜかというと日本から来た選手は団体から派遣されて来てるんで、将来を嘱望されて海外へ送られるわけです。帰る場所があるんです。その点、僕は日本の団体をやめて来てるんです。帰る場所がない。そこで魅せないと絶対生き残っていけないと分かったんで。そうなると、試合だけではなく、生きていくためには言葉を覚えるしかない。だから自分で家庭教師を雇って、泊まっていた宿の近くの喫茶店に来てもらって、レッスンを受けました。それで練習して、試合して、生活が始まる。それをしないと、帰るところがないので。ここで生きていくためには、そこで試合があろうがなかろうが、そういう生活を後ろを振り返らず、日々続けていきました」
――なるほど…
「僕は日本の団体をやめて来てるんで、最初意地を張ってて、僕の気持ちは誰にも分からない、分かってもらう必要もないと。自分のことを日本の人に知ってもらわなくていいと。だからSNSも一切やってなかったし、それで向こうで生き残っていくんだと。それをやってて、1年後にビザが切れますから、そのときにネコさんから『どうする?』と聞かれまして…。僕は更新したいです。もう1年いさせてくださいと更新したわけです。2005年から、新日本から選手が定期的に来るようになって、最初に田口(隆祐)君が来て、その後、当時IWGPタッグチャンピオンだった棚橋(弘至)選手、中邑(真輔)選手が5週間メキシコ遠征に来ました。その後、邪道さん、外道さんが来たりとか、選手交流が始まったんです。田口君が来てから、日本人選手とタッグを組むようになって。2006年に2年目が終わる頃、もうネコさんはお亡くなりになっていらっしゃらなかったんで、後ろ盾がなくなったんです。甘えてたつもりはなかったですが、それまでネコさんのアドバイスを聞いていました。2年目が終わる2006年のビザ更新のとき、会社から言われたんです。『そろそろ日本に帰るよね?』と。いらないとは言われてなかったんですが、そこで僕は『もう1年いさせてください』と言ったんです。3年目になって、2006年11月にCMLLのボディビル選手権が開催されることになったので、一念発起して、体を絞って出場しました。誰も僕が出るなんて思ってなかったでしょう。選手間の大会なんですけど、審査員にはミスター・メキシコのボディビルダーがいて、大きい規模でやってるんです。自分を会社にアピールするため、その大会に体重を20キロ落として出場しました。
©新日本プロレス
そして、またちょっとずつ試合が増えるようになって。2007年、次の年もボディビル選手権に出るぞと思って、前年より絞って再度出場したんです。2007年は、後藤(洋央紀)選手がいたんで、大原はじめ選手と3人で袴スタイルで試合をしていました。でも、彼らは帰るじゃないですか。2008年、またボディビル選手権に出るぞって思って頑張っていたんですが、6月に右肩の鎖骨を折ったんです。欠場して、手術して、プレートとネジを7本入れたんです。金属が体に合わなくて、腰骨の軟骨を移植して再手術になったんです。自分のなかで不安で仕方なくて、これはもうこの会社にはいられないなと悟って…。そのときに会社から言われたのが、『心配しなくていいから、家で休んでおけばいい』と、フランシスコ・アロンソ社長(故人)から言われたんです。会社は一生懸命やってる自分を認めてくれてたんだなって思って。2回手術したんですけど、4ヵ月半後くらいの2008年11月に復帰して。また頑張ろうと思って。その頃に初めて新日本プロレスの東京ドームにミスティコが参戦する話があって、自分が間に入りました。2009年の1・4東京ドームにミスティコが初参戦して、その後、ノー・リミット(内藤哲也&高橋裕二郎)が当時アメリカのTNAから、メキシコに入ってきたんですが、僕が橋渡しをしたんです。その頃から日本人として、会社に恩返ししなきゃならないと悟るようになって。一日本人が外国にいて、ゲスト選手じゃなく、ずっと置いてくれていて、キャリアを積ませてくれて、会社に恩返したいと思うようになりました」