“過激な仕掛け人”新間寿さん逝去 猪木×アリ実現の立役者、プロレス界に遺した革命の足跡

「過激な仕掛け人」と称された昭和プロレス界の名プロデューサー、新間寿氏が4月21日、東京都内の自宅で息を引き取った。
90歳であった。関係者によれば、3週間前に体調を崩して入院し、18日に退院したばかりだったという。
プロレス史に名を刻む数々の名勝負の裏側には、常に新間氏の存在があった。中大卒業後に一般企業勤務を経て、1966年には東京プロレスの設立に参加。
アントニオ猪木と豊登のタッグを軸に据えた団体で、後のプロレス改革の萌芽を蒔いた人物である。
新日本プロレスが設立されたのは1972年。猪木の片腕として新間氏は同団体に入社し、専務取締役兼営業本部長として辣腕を振るった。
なかでも1976年6月、モハメド・アリとの異種格闘技戦を実現させた功績は、日本のみならず世界の格闘史に残る一大事業である。
また、プロレスを子供たちにも浸透させる起爆剤となったのが、1981年に生まれた初代タイガーマスク(佐山サトル)であった。
空前のブームを生み出し、「プロレスブームではなく、新日本プロレスブームだ」と語った新間氏の言葉は、業界人の記憶に今も残る。
1983年には社内の政変騒動の責任を取り退社するが、翌84年にはUWFを設立。
プロレスとリアルファイトの融合を志し、当時の既存体制に風穴を開けようとした。理想は高く、現実は厳しかったが、その挑戦精神は今も後進に受け継がれている。
政治の世界にも足を踏み入れ、1989年にはアントニオ猪木が設立したスポーツ平和党の幹事長に就任。
「国会に卍固め」「消費税に延髄斬り」といったキャッチコピーを打ち出し、異色の選挙戦を展開。猪木の参議院議員当選を後押しした。
2019年には、日本のプロレス関係者としては数少ないWWE殿堂入りを果たし、世界からもその功績が認められた。
近年は初代タイガーマスク・佐山サトルが主宰するストロングスタイルプロレスの会長を務め、最後の公の場は2023年9月26日の後楽園ホール大会であった。
「新間さんがいなければ、今のプロレスはなかった」。そう語る関係者は多い。
その足跡は、リングの中よりもリングの外で、遥かに深く、広く、後世に語り継がれていくことになる。