”過激な仕掛け人”新間寿さんは人心掌握術の達人だった 人懐っこい笑顔で「元気?」「期待しているよ」と…

“過激な仕掛け人”新間寿さんの通夜が29日、告別式が30日にご実家の東京・新宿区の感通寺で営まれる。21日に亡くなった新間さんは90歳だった。
アントニオ猪木の右腕として馬場・全日本プロレスと競い合って新日本プロレスの発展のために尽力した。ボクシングの世界ヘビー王者モハメド・アリと猪木の大一番始め、一連の異種格闘技戦を実現させ、初代タイガーマスクの登場、IWGP構想など多くを仕掛け成功させる。
その後、猪木と袂を分かったが、プロレスそして猪木への熱い想いは揺るがなかった。「猪木はすべてに渡って別格で神様のような人。彼を支えるのが自分の使命だ」と何度も聞かされた。
リング上からの「昔、武田信玄が…」などと法話のような挨拶も定番だった。まだコードのあるマイクの時代。長いコードを上手にさばきながら、四方を向いての挨拶は忘れられない。「お客さんは四方にいるんだ、背中にも視線を感じろ」と自ら示していた。
選手、関係者、ファンにはもちろん、メディアの人間にも心配り、気配りする方で、人心掌握術の達人だった。「君に期待している。君を頼りにしているんだ」と、よく口にしていた。「ほめる、おだてる、感心する」がセットで、多くの人がいつの間にか新間さんのファンとなっていた。
何を書いても例の人懐っこい笑顔で受け流してくれたが、数年前に一度だけ激しい口調で抗議の電話を受けたことがある。
猪木と馬場の交流話のひとつで、猪木が全日本プロレスの会場を訪れた際に、馬場に借金を申し入れたことがあった。馬場の側近の証言に加え、馬場から直接「何しに来たと思う」とコトの顛末を聞いており、記事にしたのだ。
ところが、新間さんとしては、猪木の立場が悪くなると思われたのかも知れない。「こんな話、私は知らん」の一本やり。自分の関知していない話には「知らん。そんなことない」という関係者が多いが、まさにこの時の新間さんだった。
丁寧に説明したところ、完全には納得はしていないようだったが、怒りは収めてくれた。元より、新間さん自身は記事を直接、読んでおらず、誰かから誇張して吹き込まれたようだった。業界あるあるだが「あんたも、猪木が好きだからな」と、新間さんは最後にはわかってくれた。
新間さんは選手、関係者、ファンを自分のお子さんと同じように見ていた。初対面の時のイメージのまま、優しい視線は変わらない。その眼差しに、新人記者として挨拶した自分のことを思い出す。だが同時に、時間は流れたのだと痛感する。
長年のファンのお父さんが亡くなった時には、お葬式に駆けつけてくれたという。お寺の息子で僧侶でもある新間さんはお経をあげてくれた。「お父さん、プロレスファンは強いんです。お子さんにはプロレスがあるから大丈夫ですよ!」と遺影に話しかけたそうだ。
家を新築したと聞けば、ご無沙汰しているファンであっても豪華なスタンド花を贈った。
東京から北海道・札幌大会まで応援にやって来た女性ファンに感激し、花束嬢としてリングにあげている。気配り目配りの人だった。
大日本プロレスの東京・後楽園ホール大会を訪れた時には、登坂栄児社長から「自分はレスラーになりたいと思ったことはない。でも憧れて目標にしている人がいる」と紹介された。会場中に「え、あの新間さんがここに…」と会場中がどよめいた。
若手選手に自ら駆け寄り「君の様な選手が必要、頑張って。期待しているよ」と声をかけるなど、分け隔てなく話しかけ、味方にしてしまう。
子どものファンにもきちんと対応し話に耳を傾けた。「一つでも二つでも、いいアイデアがあれば…」とファン目線を大切にしていた。
エプロンから間近で試合を見る、そして休憩時間には客席を見てファンの反応を肌で感じる”現場主義”。「あの試合どうだった?」「どんな選手が来たら面白い?」と感想や意見を求めるなど、とにかくいつ何時でもアンテナを張り巡らしていた。
世間を驚かせた数々の仕掛けは「人たらし」の集大成。さまざまな功績は昭和、平成、令和と時代は進んでも決して揺るがない。
天国で和解した猪木と新たな仕掛けを相談していることだろう。昨年11月の力道山「生誕百周年記念パーティー」で、いつものように「おお、どうしている。元気かい」と声をかけてくれました。あの笑みを忘れられません。
プロレス界に万里の長城を築くと何度も口にされていましたね。肉体は滅んでも、過激な魂は死なず。
きっと空の上で、プロレス万里の長城を築いてくれることでしょう。合掌。(文中敬称略)
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