根強い人気の「革命戦士」長州力 厳しい指導も選手への熱い想いの裏返しだった

2019年6月26日「革命戦士」長州力が2度目の引退試合に臨んだ。家族が見守る中、越中詩郎、石井智宏と組み、藤波辰爾、武藤敬司、真壁刀義組と対戦。真壁のキングコングニードロップにフォール負けを喫し「白いリングシューズ」を脱いでいる。
あれから6年。藤波がいく度となくリング復帰を呼び掛けているが、長州はリングに戻っていない。今や「ちょっと怖いけどお茶目な一面もある」タレントとして活躍。革命戦士の人気は根強い。
「写真提供:柴田惣一」
実は体力維持を続けている。しばしば東京・世田谷区野毛にある新日本プロレス道場を現れ、現役選手顔負けのトレーニングに汗を流している。古巣の道場は長州にとっても居心地が良いようだ。
長州と言えば自身の試合同様、アグレッシブな指導だった。新日本の現場監督時代には、様々な選手を鍛え上げた。現代なら即アウトの指導法もあって、中には反発した選手もいる。
今年2月28日、53歳で亡くなった「闘う区議会議員」西村修もその一人だった。
生前、長州のともすれば感情が先に立つ極端な育成法に「今でも憎い」と口にしていた。何度も長州と衝突し、会場の控室で説教という名の「公開処刑」をされたこともある。長州のあまりの激昂ぶりに他の選手もただ見守るしかなかった。
「写真提供:小林和朋氏」
西村は「誰も助けてくれなかった。彼より先輩がひと言、止めてくれればやめたと思うのに。知らん顔して横を向いていたのを見て絶望した」と、何度も繰り返していた。
長州と西村はまさに水と油だった。ファイトスタイル、体づくりの方法など「プロレス哲学」が相容れなかった。長州は私服や靴、持ち物、車にまで厳しく口出しした。
「写真提供:小林和朋氏」
西村の負の想いは膨らんでいった。「今でも大嫌い」と前置きしたが、年齢を重ねていくうちに「恩人ですと思えるようになって来た」と神妙だった。
西村が26歳の若さで最初にガンに罹患した時、尊敬する先輩は「気にするな」と、ただそれだけだった。「気にするなって…。ガンになったら気にしますよ。ああ、この人にとってはその程度、しょせん他人事なんだとわかって、とても悲しかった」と唇をかみしめていた。
「写真提供:柴田惣一」
一方、長州は「とにかく早く治せ。戻って来る場所は用意しておく」と、心から心配してくれた。長州の優しさに初めて触れた瞬間だった。その時から、西村の中で何かが微妙に変わった。
実際に長州は他の選手とは違う契約、西村の思い通りの治療に臨める契約を当時の新日本幹部に掛け合ってくれた。そのおかげで、世界各地で独自の治療法に取り組むことができたのだ。一年で日米を15回も往復できたのは、長州のおかげだった。
西村は「嫌いだけど感謝している。いい人に見えて実は冷淡だった人もいるが、長州は冷たい人ではなかった」とキッパリ。時間薬というが、ある時から西村の中では長州への複雑な思いも消化され、憎悪よりも感謝が上回ったようだ。
プロレス哲学でも長州の「一目でレスラーとわかる体づくり」の価値を、晩年の西村は理解できたようだ。「あの人の言う事は間違っていません」と、力説した西村を思い出す。
西村だけではない。長州への感謝を忘れない選手は多い。対立し口だけでなく、手も足も出す指導をしたのも、熱く真摯に向き合っていたからこそ。熱血漢・長州の素晴らしさは徐々に浸透していくのだ。
6年前のファイナルマッチで、会場があれだけ盛り上がったのは、ファンはもちろん選手も長州の魅力に感じ入っていたからだった。
「これからも、このような雰囲気で若い選手たちを皆さんで押し上げてやってください」と訴えた。らしい言葉から、6年が経った。マットから去る要因となった体中の痛みは、かなり癒えたのではないか。コンデションは良くなっているのではないか。
「うっとうしい」と吐き捨てられた若き日。「山本(天山広吉)はどうだ?」「今年のG1は誰が強い?」と聞かれた日々…。何度もドヤされた。ピリピリした緊張感にあふれたやり取りが思い出される。
「写真提供:柴田惣一」
令和の日本プロレス界は長州の目にどう映っているのだろうか。「ナニがアレだよ」と言うのだろうか。(敬称略)
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