「ミスター全日本」和田京平レフェリーの最後の夢 三沢光晴との約束のリングへ

7月7日は七夕。1982年のこの日、ジャイアント馬場と元子夫人が結婚を発表している。「七夕に結婚発表なんてロマンチックね」と、当時の若い女性ファンは瞳を輝かせていた。
長年、馬場夫妻の側近を務め、そして2人を看取った「ミスター全日本」和田京平レフェリーが最後の夢に、三沢光晴との約束を果たすことを掲げた。
1972年の全日本プロレス設立当初からリングスタッフで参加した京平は、74年からはレフェリーとしても活躍するようになった。渕正信と並んで全日本の生き証人である。
(写真提供:伊藤ミチタカ氏)
SWS、ノア、WRESTLE―1など親密だった選手の離脱にも「全日本」を守り通した男だ。全日本一筋なのに「一度、ノアの所属レフェリーになり、ノアのリングで裁きたい」というのだから驚きだ。
実は、全日本を退団しノアを立ち上げた三沢と交わした誓いを守りたいという。
三沢が2000年の新団体旗揚げに向け、動き出していた頃のこと。大阪のホテルで三沢と2人きりになった。「三沢がそれらしいことを口にし出したので『俺の前ではやめてくれ』と止めたんだ」と振り返る。
馬場亡き後、全日本のオーナーとなった元子夫人の懐刀だった京平である。話を知ってしまえば、報告しなくてはいけない。三沢は「わかりました。京平さんは元子さんを守ってください」と頷いてくれた。
京平は馬場夫妻だけでなく、三沢とも昵懇だった。一時代を築き上げた三沢、川田利明、田上明、小橋建太の四天王プロレスも京平のレフェリングがあったればこそ。三沢の想いも十二分にわかっている。苦しい決断だった。
その時、京平と三沢は二人で約束した。三沢は新団体に京平のデスクを用意する。京平は新団体のリングにあがる。いつの日か京平が三沢の団体でレフェリーを勤める。
袂を分かった二人だが、2004年7月18日、東京・両国国技館大会で4年ぶりに三沢が全日本マットに上がった。その試合のレフェリーは京平だった。2人はゴング前に握手をした。大歓声に包まれる。選手とレフェリーが言葉をかけあうことはあるが、手を差し出すのは珍しい。
京平は「あの時、いろいろと言う人もいたけどね。三沢と俺の間では『次はノアのリングで。大阪の夜の約束を守る』という意味合いだった」と振り返る。
「約束を実現させる前に、三沢は俺よりも先に逝ってしまった」とポツリ。折に触れ、三沢とのやり取りを思い出す。三沢の命日6月13日になると、なおさらだ。「三沢の話が出てくると、たまらなくなる」と声を詰まらせた。
三沢が亡くなって16年が経った。京平も70歳。軽快なレフェリングは健在だが、本人は「もう以前の様な動きはできない」と、寄る年波を感じている。
もちろん引退するのは全日本。だがその前にノアに一時的に移籍し、三沢の作った団体の所属レフェリーとなる。「両団体に失礼な話なのは百も承知。でも、三沢との約束を果たしたい。それが俺の最後の夢」と、はにかんだ。
ノアのリングでノアの和田レフェリーに「キョーヘー!」の掛け声がかかる。天国の三沢が「京平さん、やっと来てくれましたね」と笑っている。
簡単なようで難しいかも知れない。だが、不可能なようでもあっさり実現するかも知れない。
七夕に京平の願いが天に届くのか。(敬称略)
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