全米にその名を轟かせた“東洋の巨人”ジャイアント馬場『遙かなる王道プロレス!』

「王道」という名の、偉大なる魂の継承】

全日本プロレスを設立した馬場が、そのリングで掲げ続けた理想。それが「明るく、楽しく、激しいプロレス」、すなわち「王道」である。このシンプルにして深遠なイズムは、馬場の教え子たちへと、形を変えながらも脈々と受け継がれていくことになる。

その筆頭が、「完全無欠のエース」ジャンボ鶴田であった。五輪レスリング代表という輝かしい実績を引っ提げ、馬場が自らの後継者として白羽の矢を立てたエリート中のエリート。鶴田は、馬場の大きな庇護の下、その類まれなる才能をいかんなく発揮した。そのファイトスタイルは、まさに馬場が理想とした「明るさ」と「強さ」のハイブリッド。鶴田は、馬場の創り上げた「王道」という名の高速道路を、一直線に突き進んでいったのだ。

だが、王道は一本道では終わらない。鶴田という太陽の影に甘んじ、苦汁をなめ続けていた男が、突如として牙を剥いた。天龍源一郎である。「天龍革命」と名付けられたその闘いは、全日本のマットに凄まじいまでの緊張感と熱狂の炎を巻き起こした。しかし、特筆すべきは、天龍の革命が、決して馬場の「王道」を否定するものではなかったという点である。

「明るく、楽しく、激しいプロレス」の「激しさ」という側面を、極限まで、命を削るレベルまで突き詰めることで、結果として「王道」に、それまでなかった深みと奥行きを与えたのだ。その後の天龍の離脱という衝撃ですら、馬場は大きな山の如き器で、静かに受け止めていたように思えてならない。

そして、その天龍が去った後の全日本を支え、プロレスの歴史そのものを塗り替えることになるのが、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋建太の「四天王」であった。彼らが90年代に繰り広げたプロレスは、もはや試合という概念を超えた、魂の削り合いであった。脳天から垂直に相手を突き刺す、あまりにも危険な技の応酬。

なぜ、あれほどの戦いが成立したのか。それは、「受け身の重要性」を説き続けた馬場の教えが、その根底に深く、深く根付いていたからに他ならない。四天王プロレスとは、馬場が蒔いた「激しいプロレス」の種が、弟子たちの手によって究極の形で花開いた、まさに「王道の最終進化形」であったのだ。

そして、華やかなエースたちの戦いの陰で、その王道の歴史を黙々と支え、体現し続けた男たちの存在を忘れてはならない。渕正信である。馬場の側近として、そして全日本プロレス一筋のレスラーとして、その変遷の全てをその身に刻んできた。派手さはないかもしれない。しかし、その必殺のバックドロップに象徴される、基本に忠実で老獪なファイトは、まさに“いぶし銀”の輝きを放っていた。渕正信こそ、全日本プロレスの歴史そのものを語る、生ける辞書なのだ。

リングの上には、もう一人の王道の体現者がいた。馬場から絶大なる信頼を寄せられたメインレフェリー、和田京平である。厳格かつスピーディーなレフェリングで、四天王の激しすぎる魂の削り合いを裁ききったその手腕。時に「キョーヘー!」というコールでファンから絶大な支持を受けるその姿は、もはや単なる審判ではない。レスラーと共に戦い、王道のリングを守り続けた、偉大なる守護神であった。この二人の“生き字引”がいたからこそ、王道の歴史は、より深みを増したのである。

ジャイアント馬場という大きな山の裾野は、王道という名の登山道だけではなかったことも、また事実である。馬場の元を離れ、涙の引退の後、全く新しい「邪道」という名の電流爆破デスマッチでインディー界に一大ムーブメントを巻き起こした“涙のカリスマ”大仁田厚。その生き様は、王道とは対極にあるように見えて、観客を熱狂させるという一点において、プロレスの本質を突いていた。

馬場と共に汗を流した仲であり、全日本の礎を築いたグレート小鹿が、後に日本で最も過激な団体と称される大日本プロレスを旗揚げしたという事実も、また興味深い。蛍光灯や有刺鉄線が飛び交うリングにも、馬場から受け継いだプロレスラーとしての矜持は、確かに息づいていたのだ。

全日本の若手としてキャリアをスタートさせ、後にライバル団体へ移籍し、“侍”として平成のマットを大いに沸かせた越中詩郎のような存在もいる。戦う場所は変われども、その力強いヒップアタックには、若き日に馬場道場で培った基礎体力の確かさが光っていた。

彼らは、王道という名の高速道路ではなく、自らの手で新たな道を切り拓いていった異分子たちであった。しかし、その出発点が、ジャイアント馬場という偉大なる指導者の下にあったという事実は、馬場イズムが持つ、計り知れないほどの懐の深さと多様性を物語っているのである。

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