【天龍源一郎 魂の独白】<第5回>栄光の『プロレス大賞MVP』、逆境の『SWS』、人間『馬場と猪木』「誰かが、どこかで、あんたのことを見ている」

“超獣”ブロディ、“革命戦士”長州、そしてザ・ファンクス――。リング上で邂逅した強者たちとの記憶を紐解く“ミスター・プロレス”天龍源一郎の言葉は、熱を帯びていた。

それは、天龍源一郎が歩んできたレスラー人生が、いかに多くの魂との衝突によって磨かれてきたかの証明に他ならない。

全日本プロレスのマットで数々のライバルと名勝負を繰り広げ、天龍源一郎はやがて誰もが認めるトップレスラーへと駆け上がっていく。

プロレス大賞MVPという栄誉は、その紛れもない証だった。

しかし、龍の道は平坦ではなかった。栄光の頂に立った天龍源一郎を待っていたのは、プロレス人生最大の逆境ともいえる、SWSでの苦闘と、それに続くWARでの孤高の闘いである。

第5回では、天龍源一郎のキャリアの核心、その光と影に深く切り込む。なぜ彼は栄光を捨て、いばらの道を選んだのか。そして、四面楚歌の状況から、いかにして逆襲の狼煙を上げたのか。

その原動力の奥底には、知られざる信念と、人間・天龍源一郎の赤裸々な姿があった。

今回はロングインタビュー【第5回】を掲載。


<写真提供:伊藤ミチタカ氏>

■栄光の頂へ「記者の心をつかんだ」プロレス大賞の真実

―― 80年代後半、天龍さんはプロレス大賞のMVPや年間最高試合(ベストバウト)を次々と受賞され、名実ともプロレス界の頂点に立たれました。数々の栄誉を可能にしてきたモチベーションは、どこにあったのでしょうか。

天龍: 根っこにあるのは、やっぱり「相撲崩れ」って言われるのが一番嫌だった、ということだね。その反骨心が、俺をずっと突き動かしてきた。それと、もう一つ大きなきっかけがあった。全日本にいた頃、2年連続でベストバウトを獲った時があったんだ。その時に、「ああ、こうやれば記者の人たちの心をつかめるんだな」っていう、ある種のヒントを得た。それが大きかったね。

―― 「ベストバウトの獲り方」に気づいた、と。

天龍: そう。それまでは、どうすればベストバウトなんてものが獲れるのか、手探りだったんだ。最初の年に受賞した時も、「キャリアも10年経ったし、お情けでくれたのかな」くらいにしか思っていなかった。ジャンボも長州も藤波もいるのになって。だけど、翌年も獲れた時に、「マジかよ」と。「プロレスっていうのは、こういう風にお客さんや記者に熱を伝えれば評価されるんだな」っていう、確かな手応えを感じたんだよ。そこからだね。1年か2年空いたかもしれないけど、パタパタパタっと、自然に賞がついてくるようになった。

―― 受賞歴を拝見すると、対戦相手もスタン・ハンセン選手、ジャンボ鶴田選手、ハルク・ホーガン選手、長州力選手、高田延彦選手、武藤敬司選手と、錚々たるメンバーが並びます。相手の力を最大限に引き出す、天龍さんの「受けの美学」があったからこそ、とも言われますが。

天龍: 俺は難しいことは分からない。ただ、プロレスの原点は、猪木さんが言うように「闘い」だよ。じゃあ、闘いって何だ?って考えた時、殴られたら前のめりに倒れるだろ?腹を蹴られたのに、きれいに後ろ受け身なんて取らないだろ?っていう、ごく当たり前のところから出発しただけなんだ。

―― リアリティの追求、ですね。

天龍: 観ているファンが、まるで自分がやられているかのような錯覚に陥る。そのくらい、徹底的にやられる姿を見せる。そうすれば、どんなに打ちのめされている俺にでも、「天龍、頑張れ!」っていう声援が飛ぶ。ファンの気持ちと、リング上の俺の気持ちが一つになる。その一体感が、名勝負と呼ばれるものを作るんだと思う。やられているフリをしていたら、客は一瞬で興醒めする。最後の最後に歯を食いしばって立ち上がる、その形相にこそ、お客は心を揺さぶられるんだよ。

【プロレス大賞】
殊勲賞(1981年)
敢闘賞(1983年)
最優秀タッグチーム賞(ジャンボ鶴田)(1983年)
殊勲賞(1984年)
最優秀タッグチーム賞(ジャンボ鶴田)(1985年)
最優秀選手賞 MVP(1986年)
年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、8月31日・日本武道館)(1987年)
最優秀選手賞 MVP(1987年)
最優秀タッグチーム賞( 阿修羅・原)(1987年)
最優秀選手賞 MVP(1988年)
年間最高試合賞(天龍源一郎 vs スタン・ハンセン、7月27日・長野市民体育館=PWF、UN2冠戦)(1988年)
年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、6月5日・日本武道館=統一3冠戦)(1989年)
技能賞(1990年)
年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ハルク・ホーガン、12月12日・東京ドーム)(1991年)
最優秀選手賞 MVP(1993年)
年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 長州力、1月4日・東京ドーム)(1993年)
年間最高試合賞(大仁田厚、ターザン後藤 vs 天龍源一郎、阿修羅・原、3月2日・東京・両国国技館)(1994年)
殊勲賞(1996年)
年間最高試合賞(高田延彦 vs 天龍源一郎、9月11日・神宮球場)(1996年)
年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 武藤敬司、IWGPヘビー級選手権試合、5月3日・福岡国際センター)(1999年)
年間最高試合賞(天龍源一郎 vs オカダ・カズチカ、11月15日・東京・両国国技館)(2015年)
特別功労賞(2015年)

 


<写真提供:伊藤ミチタカ氏>

■逆境のメガネスーパー「誰かが見ている」、その一心で泥水を啜った日々

―― 絶頂期にあった1990年、全日本プロレスを離脱し、新団体のSWSへ移籍されます。そこから、天龍さんのキャリアで最も厳しい逆境の時代が始まりました。

天龍: ああ、そうだな。

―― SWSは「金権パワー」と揶揄され、一部マスコミから猛烈なバッシングを受けました。その逆境を、どのようにして跳ね除けてこられたのでしょうか。今、様々な悩みを抱える多くの人々にとって、その経験は大きなヒントになるかと思います。

天龍: これは、俺が生涯を通じて言い続けていることだけど、「誰かが、どこかで、あんたのことを見ている」っていう、ただその一点に尽きるよ。どんなに苦しい時でも、辛い時でも、必ず誰かが見ていてくれる。それは親かもしれないし、友人かもしれない。俺にとっては、ファンであり、そして家族だった。そういう人たちが「頑張れよ」「何かあったら言えよ」って思ってくれている。そう考えたら、簡単に投げ出したり、ギブアップしたりはできないだろ。「もうちょっとだけ、頑張ってみるか」と。その気持ちの積み重ねだよ。

―― その中でも、奥様の支えは大きかったのではないでしょうか。

天龍: もちろん、結婚してからは、俺がやる好き勝手なことの後始末を全部やってくれたのは女房だからね。込み入った話をする時でも、最後の最後、俺が言い淀んでいると、女房が「それは天龍も納得しませんよ」って、俺に代わって言ってくれたこともあった。そういうのを聞くと、やっぱり心地よかったよな。「ああ、この人は俺を守ってくれるんだ。だったら俺も、この人を守っていかなきゃいけないな」って、自然に思えた。

―― SWS時代には、東京ドームで当時“世界最高峰のレスラー”だったハルク・ホーガン選手とのシングルマッチも実現させました。

天龍: あれは、俺なりの意地だった。当時、SWSの母体だったメガネスーパーの田中八郎社長が、何十億円も使って団体を作ったと騒がれていた。俺は社長に言ったんだよ。「社長、こんな金、プロレスの興行なら家の二、三軒も建てられるくらい、すぐに取り返せますよ」ってね。その言葉を証明するために、俺は自らニューヨークへ飛んでWWFと交渉し、ホーガンとの一騎打ちを実現させた。

―― 結果、東京ドーム大会は大成功を収めました。

天龍: あの大会だけで、メガネスーパーには数億円の売り上げがあった。試合が終わった後、田中社長が俺のところに来て、「天龍さん、もう一回ホーガンとやってください」って頭を下げたんだ。あの瞬間は、本当に気持ち良かったね。「勝った!」と思ったよ。当時、団体の他の連中は「なんで天龍ばっかりスポットライトを浴びるんだ」って文句を言っていたけど、俺は心の中で言ってやったよ。「お前らじゃ、この金は稼げねえだろ」ってな。金の稼げるレスラーっていうのは、こういうことなんだって、身をもって示してやったつもりだよ。

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