児童養護施設でプロレスを知り平成を選手で完走、現在は覆面社長のコマンドボリショイ

「私はその頃、アメリカンプロレスが大好きだったんですよね。(怪奇派の)ザ・ディメンティアを通じて、世の中にはこういうプロレスもあると知ったんです。アメリカのGLOWに入りたいと手紙も書いたんですけど、団体が解散となってしまって、どうしていいかわからず、そのときの流れで新団体のJWPに入ることになりました。そこからアメリカに行きたいと話したら、『行けるよ』との答えで、だったら(JWPで)頑張りますと。でも、それっきり何もなく、結局20年後くらいに(米チカラプロに)自腹で行きました(笑)」

写真提供:コマンドボリショイ
JWPではコミカルなボリショイ・キッドに加え、戦闘バージョンのコマンドボリショイを使い分けるようになった。やがてコマンドが通常バージョンとなり、しだいにリーダー的役割も担うようになっていく。
「主力が引退したりして、どんどん責任が増していきましたね。どう見ても末っ子みたいな存在だったので、まさかそんな立場になるなんて思ってもみなかったです。2000年くらいからですかね、ちょこちょこマッチメークもするようになって。ただ、03年に会社がお手上げ状態になってしまって…」
写真提供:コマンドボリショイ
所属選手が激減し、JWPは解散のピンチに追い込まれた。一時は選手が5人まで減ってしまう異常事態。いまでこそ所属選手が少ない団体もあるが、当時は存続が危ぶまれる状況だった。それでも何とか持ちこたえ、撤退していた後楽園ホールでの大会にも戻ることができた。
「『やめてもいい』と(会社から)言われてもいましたけど、最終的に日向あずみ、春山香代子、米山香織、渡辺えりか、そして私の5人でやっていこうとなりました」
17年にはJWPからPURE-Jに移行。ボリショイも団体を仕切りながら中心選手として活躍した。ところが、実際には06年あたりからボリショイは身体の異常を察知していたという。強い衝撃を受けると下半身が麻痺状態に。最初はダメージの蓄積かとも考えたが、黄色靭帯骨化症、脊柱管狭窄症との診断。外部に知られないところで、病と闘っていたのである。そのなかでボリショイは肉体改造に着手する。ボディービルコンテストで入賞するほどの成果を出したトレーニングは、かえってプロレスラーとしての延命に役立ったとのことだ。

「身体にキレが出たことでよけいなケガもしないし、脊柱管をちゃんと背筋で守れました。身体を守れる筋肉を付けたんだと思います」
それでもやはり、プロレスを長く続けていくには無理があった。19年(平成31年)4・21後楽園で引退。マスクは脱がずに、覆面社長として団体運営に専念することにした。そして現在も、PURE-Jを牽引。では、引退の原因にもなった病の方はどうなのか?
「病気と付き合いながらでしたが、今年4月の手術でほぼ終わりだと思います。経過観察があと1年半くらいありますけど、ほぼ全快と言っていいと思います」

現在の所属選手は10名で、10月に練習生がひとり入寮。PURE-Jでは通常の大会に加え、足立区の道場をリングを持たない団体の練習場としても貸し出している。また、道場でボリショイがパーソナルトレーニングやプロレス教室もおこなっている。
「たとえばロープワーククラブというのがあって、小さい子から年配の方まで、男女問わずリングのなかを走ってみたい人に体験してもらうクラスもあります。また、女子レスラーになりたい子はもちろん、現役でよりスキルアップしたい選手にもリングを使ってもらえます。こういうことでプロレスに恩返しできたらなって。私の人生、閉鎖的で何もなかったところからプロレスが生きる力になったんですね。教育って最高のプレゼントだと思うんですよ。プロレスで教育して、いい選手を育て、いい試合を見てもらう。見てくれたお客さんが生きる希望を得て、また見に来てくれたらいいなと思いながらやっています」

また、ボリショイにとっては音楽も重要な活動のひとつ。故ハヤブサ選手との出逢いから続けているライブを通じ、プロレスをアピール、引退した選手のその後の活動の参考にもなると考えている。ジャパン女子での寮生活中に偶然見つけたギターを持って――。
インタビュアー:新井宏















