“四次元殺法”から“新武道”へ!初代タイガーマスクとして生きる宿命を受け入れた天才・佐山サトル、果てなき探求の現在地

昭和という時代の中で、プロレスというジャンルが人々の生活の「ど真ん中」に存在していた熱狂の時代があった。

金曜日の夜8時。街から人が消え、誰もがブラウン管の前に釘付けになった。その四角い箱の中から、文字通り飛び出してきた奇跡の存在。

それが『黄金の虎』初代タイガーマスクである。

デビュー50周年、そしてタイガーマスク誕生45周年という途方もないメモリアルイヤーを迎えた天才・佐山サトル。

重い体調不良を乗り越え、再び我々の前に力強い言葉を届け始めた伝説の男が、現在の心境、当時の知られざる葛藤、そして未来へ向けた「武道の創生」について熱く語った。

今回は、日本中を熱狂の渦に巻き込んだあの当時の空気を振り返りながら、佐山サトルという不世出の天才がプロレス界、格闘技界、そして日本の武道界に残してきた圧倒的な足跡と、現在進行形の野望について、筆の赴くままに論じてみたい。

※4月24日、初代タイガーマスクインタビューを再構成しています。

 

■1981年4月23日、蔵前国技館。奇跡の初陣と「80点」の衝撃

歴史の針を、1981年4月23日の東京・蔵前国技館に巻き戻そう。

当時の新日本プロレスは、アントニオ猪木を絶対的な太陽とし、ストロングスタイルという名の過激な闘いを世間に突きつけていた。そこに突如として現れたのが、人気アニメとのタイアップ企画として誕生した「タイガーマスク」であった。

お世辞にも洗練されているとは言えない、マントを羽織った急ごしらえのマスクマンの登場に、当時のプロレスファンは戸惑いを隠せなかった。

「ストロングスタイルの新日本に、コミックプロレスを持ち込む気か」

会場を包んだのは、期待よりも冷ややかな懐疑の視線であった。

相手はイギリスからやってきた筋骨隆々の「爆弾小僧」ダイナマイト・キッド。誰もが、キッドの猛攻の前に得体の知れない虎が惨殺される姿を想像したはずだ。

しかし、ゴングが鳴った数分後、蔵前国技館の空気は一変する。

重力を無視したかのような跳躍力、目にも止まらぬスピーディーな攻防、そして鮮やかなローリング・ソバットやジャーマン・スープレックス・ホールド。

それは、それまでのプロレスの常識を根底から覆す「四次元殺法」の誕生であった。

試合が終わった時、冷ややかな視線は狂熱の大歓声へと変わり、日本中に「タイガーマスク・ブーム」という大爆発が起きたのである。

あれから45年。誰もが「伝説の初陣」として崇めるこの試合について、佐山の口から出たのは、驚くべき自己評価であった。

「ある程度はありましたけど、自分としてはいい試合じゃなかったと思ってます」

あの熱狂を生み出しながら、いい試合ではなかったと言うのだ。

急ごしらえのマスクで視界が悪かったことなど言い訳にするつもりはないだろう。佐山は当時の心境をこう吐露する。

「あ、いい試合だったのかと思っただけで。自分としては体が動いていないし。悔しいから、(初陣以降は)あれ以上の試合をしようと心に決めましたね」

「まったく。自分ではダメだと思ってましたから。100点満点でいったら、せいぜい80点か85点ですね」

80点。あの試合が80点だというのだから、佐山サトルという男の内に秘められた「理想」の高さは常軌を逸している。

だが、同時に「新間さんは喜んでくれてましたね。あの目が忘れられないです」と、自身をこの舞台に立たせてくれた故・新間寿会長への感謝も忘れない。

この極限の自己客観視と、周囲への感謝の念こそが、佐山サトルの天才たる所以なのである。

 

■熱狂の裏側に潜んでいた「ストロングスタイル」への絶対的な誇りと葛藤

タイガーマスクの登場は、単なるプロレス界の出来事にとどまらず、社会現象となった。

子どもたちは空き地でタイガーマスクを真似し、大人たちは金曜夜8時の放送に熱狂した。

しかし、その爆発的ブームの中心にいた佐山自身の胸の内は、決して晴れやかなものではなかったという。

「充実感というのはなかったですね。ストロングプロレスを標ぼうしている新日本プロレスがこんなことやってていいのかなと」

「この様なマスクをかぶってていいのかなという気持ちが最後までありましたね」

ストロングスタイルという厳格な闘いを標榜する新日本プロレスのリングで、漫画から飛び出してきたようなキャラクターを演じることへの強烈なジレンマ。

だが、佐山はただのキャラクターで終わるつもりは毛頭なかった。

その葛藤を打ち破る手段は、ただ一つ。「本物の闘い」をリング上で証明することだけであった。

「ストロングスタイルはダイナマイトマイト(・キッド)、小林邦昭さん、ブラック・タイガー等との試合で非常に見せられましたね」

ダイナマイト・キッドとの骨が軋むような肉弾戦。

「虎ハンター」小林邦昭との、マスク剥ぎと血で血を洗う死闘。

ブラック・タイガー(暗闇の虎)との異次元のテクニック合戦。

佐山はライバルたちとの血の滲むような激闘を通じて、「タイガーマスクは単なる見世物ではなく、本物の格闘家なのだ」という事実を、日本中、いや世界中のファンに知らしめたのである。

あそこまで日本中を熱狂のるつぼに誘った理由について、佐山はこう分析している。

「やっぱり僕のスタイル、動き、駆け引き。これは新日本プロレスの若手であった3年間、その時の練習だとか、その時作ってくれた試合法とか、それが全てだったと思います。決して自分だけの力ではないし、それを作ってくれた新日本プロレス、猪木さん、山本小鉄さん、先輩の皆さんに感謝ですね」

「猪木さんの土壌や考え方がなければできていないです」

自らの才能に溺れることなく、新日本プロレスの極限の道場で培われた基礎、そして「燃える闘魂」アントニオ猪木が作り上げた土壌にすべての功績を帰す。

これこそが、佐山の根本にある謙虚さであり、プロレスに対する限りないリスペクトの証である。

 

■「プロレスに市民権を」――アントニオ猪木への思慕と海外での開花

佐山サトルのプロレス人生の原点を紐解く上で、避けて通れないのが「師匠・アントニオ猪木」の存在である。

幼少期、ミル・マスカラスやドリー・ファンク・ジュニアといった名レスラーたちに憧れた少年・佐山が、なぜ新日本プロレスの門を叩いたのか。

その最大の理由は、アントニオ猪木が掲げた壮大なスローガンにあった。

「猪木イズム、一番惹かれたのは『プロレスに市民権を』という言葉でした」

当時のプロレスは、絶大な人気を誇りながらも、どこか「野蛮な見世物」として低く見られる風潮が存在していた。

猪木はモハメド・アリとの異種格闘技戦などを通じて、プロレスラーこそが最強であり、プロレスを世間に胸を張って誇れるスポーツに引き上げようと闘い続けていた。

その猪木の背中に、若き日の佐山は自身の理想を重ね合わせたのである。

「『プロレスに市民権を』と掲げた以上、強くなければいけないし、それだけのことをやっていかなければいけない。そして、それだけのことをアントニオ猪木はやっていました。それを実践できるという喜びがありましたね」

その後、佐山はイギリスなどの海外マットへ武者修行に旅立つ。

ブルース・リーの従兄弟というギミックの「サミー・リー」としてイギリスで大爆発を起こすなど、世界を股にかけて活躍したが、そこでも佐山はプロとしての冷徹な眼差しを失わなかった。

「まず海外遠征に関して言うと、海外に行ったら自分を売り込まないといけない。やりたくないこともやらなくてはいけないし、やろうとしていることも忙し過ぎてできない時がある。そのなかでも理想があるとするならば、それはピッタリこなしていたところはありますね。海外ではプロモーターに好かれなければ生きていけない世界ですから。そのなかでプロレスの技も磨いてきたつもりですし。その動きが皆さんのニーズにあったかもしれないですね」

プロモーターが何を求め、観客が何を欲しているのか。自分本位なファイトではなく、全体を俯瞰し、求められる以上のものを提供する。

この海外での過酷なサバイバル経験が、後の「タイガーマスク」としての完成度を異次元にまで引き上げる決定的な要因となったことは想像に難くない。

そして、その根底には常に、新日本プロレスで叩き込まれた「強さ」があったのだ。

猪木とは後に袂を分かち、近づきすぎたがゆえの様々なドラマもあったが、佐山の言葉からは恩師への揺るぎない思慕が伝わってくる。

「あまりにも近くなり過ぎてしまった時期もありましたが、アントニオ猪木のためにやろうという使命感はありました」

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