喜寿77歳の藤原喜明組長 額のシワに刻み込まれた闘いの歴史 闘志はいまだ衰えず

【柴田惣一のプロレス現在過去未来】

喜寿記念試合(ストロングスタイル5・27東京・後楽園ホール大会)に臨んだ藤原喜明組長が77歳とは思えない勝利への執念を披露した。

敗れたとはいえ「リングに上がったら、77歳なんて年のコトなんて考えない」「負けたからってどうしたってんだ。まだ、そうはいくかい。たった一回の負けだ」と悔しさを全開。そのいかつい顔にはレスラーとしての矜持にあふれていた。あくまで白星を追い求めている。

出陣前には「これが最後かもしれない」と組長らしからぬ、いささか弱気な発言もしていた。周囲はざわついていたが、ところがどっこいである。リングに上がったからには、レスラーの魂が爆発するのが組長なのだ。

船木誠勝、石川雄規を従え、アレクサンダー大塚、高橋義生、村上和成組との対戦。村上との新旧テロリスト対決としても注目されていた。高橋の膝十字固めに仕留められたが、村上とは激しくやり合った。

昭和のテロリストが平成のテロリストに引くわけにはいかない。ヘッドバットの連射で村上の額を叩き割る。場外戦に持ち込むと、傷口への噛みつき、イス攻撃と、テロ殺法が大噴火。リングに戻ってわき固めもさく裂した。

高橋の膝十字固めに無念のギブアップだったが、敵、味方なく握手と座礼を交わし、組長の闘いの歴史が蘇るファイトだった。

組長は工員、料理人など社会人生活を経て新日本プロレスに入門している。すでに家庭を持っていたとあって合宿所には入らず、東京・世田谷区野毛の新日本道場には通っていた。

10代の若者たちとは、私生活では一線を引き、孤高のスタンスを守っていた。もちろん練習では若者に負けない量と質を誇っていた。強さには定評があり、道場破りの相手をさせられることもあった。

ただレスラーも人気商売。華が必要で、組長にはなかなかスポットライトが当たらなかったが、第一次UWFでスポーツ新聞の一面を飾ったことがある。

1985年1月16日、大阪府立臨海スポーツセンター大会。「格闘技ロード公式リーグ戦」で組長とスーパータイガー(初代タイガーマスク)が激突。ノーフォール、ロープブレイクなしのまさに完全決着ルールが採用されていた。

タイガーの鋭い蹴りを耐えた組長はアキレス腱固めなど関節技で反撃する。20分以上、かたずを飲む攻防が展開され、組長が肩固めからチキンウイングアームロックに移行。それでもギブアップしない佐山の左腕をなおも組長は捻った。

「バキバキ」。筋肉が裂け、骨がきしむ何とも不気味な音がして佐山の左腕が脱臼した。レフェリーストップ。組長は「友達の腕を折ってしまった。仲間にケガを…」と声にならない声を絞り出していた。

この時、第一次UWFを追っていた私は入社4年目の若造記者だった。会社に興奮しながら「大変なことが起きました」と報告。当時は現場から電話送稿するのが基本だったが「大阪支社に上がって(行って)思う存分書いてみろ」とデスク。若手記者への優しさだった。

時間をかけて出稿。翌日の一面を飾ることができた。新日本プロレスや全日本プロレスのビッグマッチ取材で一面を担当させてもらったことはあったが、第一次UWFの単独取材で一面を仕上げたのは初めてだった。

翌日、勇んで紙面を持参した。組長はニヤリと笑い、佐山はチラリとこちらを見た。40年以上たっても二人の反応が鮮やかに蘇る。

新日本に戻った組長は、テロリストとして人気を集めた。宿舎に押しかけテロ用の凶器を作る組長を取材させてもらったこともある。

藤原組を主宰し若者たちの面倒を見たが「いつの間にか当たり前になってしまうんだ」と振り返った。人間嫌いではないが、絵を描き陶芸などに勤しみ、プロ並みの作品を輩出している。その額の深い皺に藤原喜明組長が歩んできた人生が刻み込まれている。

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