広島の夜から17年、不世出の天才レスラー・三沢光晴が命を懸けて守り抜いた「自由と信念」

■ 「自由と信念」の方舟出航。孤独な盟主の決意
2000年5月、三沢は全日本プロレスの社長を解任され、翌6月に退団を表明する。
それは安定した地位と歴史ある看板を捨て、自らの信じるプロレスの道を切り拓くための、退路を断った決断であった。
三沢の行動に賛同し、全日本を離脱したレスラーとスタッフは実に50人近くにのぼった。
三沢は自身の保険を解約し、自宅を担保に金を借り入れてまで、選手たちの給料を捻出したのである。
しかし、歴史ある団体を飛び出す行為に対し、世間の風は決して優しくはなかった。
7月13日、全日本プロレス所属としての残り少ない試合に出場した際、会場の観客から「裏切り者」という心無い罵声を浴びせられたのだ。
普段は感情を表に出さない三沢であったが、この時ばかりは怒りを露わにし、次のような言葉を吐き捨てている。
「お前にとっての裏切り者ってどういうものなのか聞いてみたいよ」
「オレの人生をその人が保証してくれるのか」
己の信じる道を進むため、すべてを投げ打った男の魂の叫びであった。
そして同年8月、三沢は新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げする。
掲げた理念は「自由と信念」。
抽象的ではあるが「選手とファンがどっちも楽しめるプロレスを目指したい」と語った三沢の目には、新しい海図なき航海への希望が満ち溢れていた。

■ 満身創痍の肉体。それでもリングに立ち続けた理由
ノアの旗揚げ以降、絶対的エースであり社長でもある三沢光晴の双肩には、想像を絶する重圧がのしかかっていた。
四天王プロレス時代に蓄積されたダメージは、すでに肉体の限界をとうに超えていた。
視神経や脳神経へのダメージによる立ちくらみ。
頸椎に増殖した骨棘により、下を向くことも後ろを振り向くこともできない。
ガウンの襟が触れるだけで、寝返りを打つだけで激痛が走る。
右目の視力障害まで抱え、まさに満身創痍の野戦病院状態であった。
周囲には「辞めたい」「引退したい」と弱音をこぼすことも増えていたという。
生前親交のあった徳光正行氏から、休養することを進言されたことがあった。
その時、三沢光晴は次のように反論したという。
「地方に行くとタイガーマスクだった三沢、超世代軍で鶴田と戦っていた三沢―つまりテレビのプロレス中継が充実していた頃の三沢光晴を観に来てくれるお客さんがいるんだよ。そういう人たちが、1年に1回しか地元に来ないプロレスの興行を観に来て、俺が出てなかったらどう思う?」
この一言に、三沢光晴というプロレスラーのすべてが詰まっている。
自らの肉体が悲鳴を上げて崩れ落ちそうになっていても、会場に足を運んでくれるファンの期待を裏切ることは絶対にできない。
ファンとの無言の約束を守るためだけに、テーピングでぐるぐる巻きになった体を無理やり奮い立たせ、緑のマットへと向かっていたのである。
運命の2009年6月13日が近づく中、三沢は取材に対してポツリと本音を漏らしていた。
「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」
これが、リング上で常にポーカーフェイスを貫き、エルボーの雨を降らせてきた男の、あまりにも人間くさい、偽らざる最後の吐露であった。
そして迎えた広島の夜。
バックドロップを受け、キャンバスに崩れ落ちた三沢。
意識が遠のく中、試合を止めるか問いかけたレフェリーの西永秀一に対し、かすかに発した言葉。
「止めろ…」
これまでどんな危険な技を受けても決してギブアップの意思を見せなかった不屈の男が、初めて、そして最後に発したギブアップの言葉。
それが、三沢光晴の最期の言葉となってしまったのである。
46歳という、あまりにも早すぎる旅立ちであった。













