四角いジャングルから消えゆく威厳、レフェリーの権威低下がプロレスにもたらす危機!暴行も不問「空気を読むレフェリング」が蔓延
プロレスとは不思議な世界である。
リングに立つのは二人のレスラー。しかし試合を成立させるためには、もう一人欠かせない存在がいる。
レフェリーである。
勝敗を裁き、ルールを管理し、時には荒れ狂うレスラーたちを制止する。
観客の目線に最も近い場所で試合を見つめる「第三者」であった。
だが近年、男子プロレスも女子プロレスも問わず、マット界を見渡していて気になることがある。
技が進化したことではない。試合時間が長くなったことでもない。
レフェリーの存在感である。いや、存在感というよりも「権威」と言った方が正しい。
令和の時代を迎えた今のリングを見渡せば、その権威は著しく失墜していると言わざるを得ない。
誤解を恐れずに言うと、決してレスラーが強大になったわけではない。裁く側であるレフェリーが弱体化してしまったのである。
身体能力の優劣を語っているのではない。「秩序を守る者」としての絶対的な価値が揺らいでいるのだ。
今回はこの深刻な事態について、警鐘を鳴らしてみたい。

■ 昭和の熱狂を生んだ「絶対的な秩序」
昭和のプロレスに熱狂した往年のファンならば、ルールの番人がどれほど恐ろしい存在であったか、肌で記憶しているはずだ。
全日本プロレスにおけるジョー樋口、新日本プロレスにおけるミスター高橋といった名物レフェリーたちは、単なる試合の進行係などではなかった。
リング上の秩序そのものであったのだ。
燃える闘魂・アントニオ猪木であろうと、東洋の巨人・ジャイアント馬場であろうと、レフェリーが下した裁定が最終判断であった。
それがプロレスという競技の根底を支える大黒柱だったからである。
もちろん、当時から場外乱闘は存在したし、凶器攻撃や反則技も飛び交っていた。
だが、それらの無法行為はあくまで「ルール違反」という強固な枠組みの中で行われていたのである。
ロープブレイクを無視して締め技を続ければ、5カウントで無情にも反則負けのゴングが鳴る。
場外に落ちれば、20カウント以内にリングへ生還しなければリングアウト負けとなる。
そして何より、試合を裁くレフェリーに手を出すようなことがあれば、即座に失格となる。
ルールが厳格に機能し、反則には重いペナルティが課されるという大前提があったからこそ、観衆は固唾を呑んで闘いを見守り、自らも声を大にしてカウントを数えたのだ。
反則行為に本気で怒り、本気でハラハラしたのである。
反則という概念が絶対だったからこそ、そこに本物の緊張感が生まれていた。
どんなヒールレスラーでも、レフェリーの制止を完全には無視できなかった。
外国人レスラーが大暴れしても、最後にはレフェリーの裁定が試合を締めくくったのである。

■ 時代と共に変質した「効果音」としてのカウント
ところが、平成に入り、状況は徐々に変化していった。
レスラーたちはより激しく、より派手で、より観客の度肝を抜くような試合展開を追い求めるようになった。
場外での攻防は長引き、乱闘のスケールは拡大の一途を辿った。
その結果、何が起きたか。厳格であるべき場外カウントが、信じられないほど曖昧なものへと変質してしまったのである。
「場外20カウント」でリングアウト裁定になる試合でもレフェリーは途中でカウントを数えるのをやめたり、あるいは最初からやり直したりと、露骨にレスラーがリングへ戻るのを待つ光景が珍しくなくなった。
ルールが存在するのに適用されないということは、ルールが存在しないことと同義である。
これはプロレスの根幹に関わる大きな問題である。
これは5カウントの反則においても全く同じ構図である。
ロープ際での首絞めや、コーナーポストでの激しい踏みつけ。
反則攻撃を咎めるレフェリーは「ワン!ツー!スリー!フォー!」と声を張り上げる。
だが、その叫び声が「ファイブ」に到達することは滅多にない。
つまり、レフェリーのカウントは、試合の決着を左右する権威ではなく、単なる試合を盛り上げるための「効果音」や「演出」に成り下がってしまったのである。















