【レジェンド外国人レスラー伝】暴力と知性の狭間で生きた“超獣”ブルーザー・ブロディが証明した「プロレスラーの凄さ」
■ 許せなかった「妥協」と、聖地で実現した盟友ハンセンとの激突
プロレス人生は、常にトラブルと隣り合わせであった。
自分の価値を誰よりも高く見積もり、決して安売りをしなかった。アントニオ猪木は、最も扱いに困ったレスラーとしてブロディの名を挙げている。
通常はマネージャーが行うギャラ交渉を直接猪木と行い、試合直前にギャラアップを要求してくることもあったという。
猪木は「自分の物差ししかない男」「交渉が上手で、頭がよかった」と回想している。
全日本プロレスから新日本プロレスへの移籍、そして新日本での試合ボイコットと永久追放。
これらの騒動も、単なる金銭トラブルではなく、自身の扱いに対する強烈な反発が原因であったと言われている。
相手が誰であろうと「自分が納得できない仕事」は絶対に引き受けなかった。
その強すぎるプライドがプロモーターとの衝突を生み、常に孤独な戦いを強いられる結果となった。
相手レスラーに対する好き嫌いも激しかった。自分と同等のスタミナと実力を持つジャンボ鶴田や、真正面から技を受け止める天龍に対しては深いリスペクトを見せた。
しかし、「俺はこんな奴は認めない」と判断した相手には徹底して非情であった。
長州力やミル・マスカラスに対しては、技を受けず、ロープに飛ばされても戻らないという態度で潰しにかかった。
そんな孤高の超獣にとって、スタン・ハンセンは特別な存在であった。
大学のフットボール部時代からの後輩であり、全日本マットでは「超獣コンビ」として大暴れした二人は、魂の底で結びついていた。
その二人が、1987年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦において、タッグマッチという形ではあったが、日本では最初で最後となる1度だけの直接対決を行っている。
かつての相棒であり、世界最強のライバル。二人の巨獣が後楽園ホールのリング上で視線を交錯させ、激しくぶつかり合った瞬間、プロレスの聖地は地鳴りのような大歓声に包まれた。
ファンが夢見た「最強の二人の激突」は、プロレス史に残る伝説の光景として今も語り継がれている。
■ プエルトリコに散った野獣の夢と、語り継がれる伝説
「誰にも負けない、俺がNo.1だ」。その強烈な自負心が、マット界の頂点へと押し上げた。
しかし、その妥協を許さない性格が、結果として自らの命を縮めることになってしまったのかもしれない。
1988年7月16日。プエルトリコでの試合前、控室でレスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスと口論になり、腹部をナイフで刺されるという悲劇に見舞われた。
翌日、出血多量により死亡。42歳という、あまりにも早すぎる死であった。事件の真相は、今も深い闇に包まれている。
極端な倹約家としても知られ、長期遠征に出る際、電気代を節約するために家中のコンセントを抜き、冷蔵庫の中身まで腐らせてしまったという笑い話もある。
私生活では家族をこよなく愛し、恩人の死には人目もはばからず号泣するような、情に厚い一面も持っていた。
リング上では狂気を演じ切り、控室では読書にふけり、プロモーターには牙を剥いた。
ブルーザー・ブロディという男は、自身の知性と肉体を武器に、プロレスというビジネスの荒波をたった一人で泳ぎ切ろうとした、孤高の戦士であった。
ブロディの死後、その姿を模倣したレスラーは多数いたが、あの圧倒的な強さと、独自の哲学を併せ持つ“インテリジェント・モンスター”は誰も真似ができなかった。
あの唸り声と、チェーンがぶつかる音が、今も多数のファンの心の奥で鳴り響いているだろう。
その伝説は、これからもマット界で永遠に輝き続ける。














