【追悼】“グレート・テキサン”ドリー・ファンク・ジュニアさん死去 日本中を熱狂させた「ザ・ファンクス」の兄が駆け抜けた85年の軌跡
今日、2026年8月5日。日米のプロレス界は、言葉にできないほどの大きな喪失感と深い哀悼の空気に包まれている。
前日の8月4日、米フロリダ州オカラの自宅で、一人の偉大なプロレスラーが静かに息を引き取った。享年85。
長年連れ添ったマーティ夫人の献身的なホスピスケアのもと、安らかな最期であったという。
「グレート・テキサン」の愛称で親しまれ、世界のマット界に数え切れないほどの伝説を刻み込んだ巨星が、ついに天へと昇っていった。
今回は、プロレスの奥深さと人間の魅力を誰よりも体現した名王者・ドリーの偉大なる足跡を振り返ってみたい。
■ 緻密なリング上と素顔の強烈なギャップ

ドリー・ファンク・ジュニアというレスラーを語る時、誰もが真っ先に思い浮かべるのは「洗練されたテクニック」や「理詰めの試合運び」といった、プロレスの教科書そのもののような姿である。
日本のロックバンド、クリエイションが奏でる軽快な名曲『スピニング・トー・ホールド』のイントロが会場に鳴り響くと、若年性脱毛症を逆手に取ったような独特のヘアスタイルを揺らしながら入場してくる姿は、当時のプロレスファンの心を鷲掴みにした。
漫画版『タイガーマスク』の最終回において、主人公が最後に対戦する最強のレスラーとして描かれたのも、ドリーが絶対的な強さと権威の象徴であったからに他ならない。
しかし、ドリーの真の魅力は、リング上の完璧な姿と、リングを降りた際のあまりにも人間臭いギャップにあった。
長年、全日本プロレスで外国人係を務め、数多くのレスラーの世話をしてきた名レフェリーのジョー樋口は、生前、ドリーの素顔についてこのように証言していた。
「私生活ではとにかく大雑把で、集合時間を知らせておいてもその時間に電話したら寝てたってことはザラで、電話してから実際に出て来るまで2、30分かかることもよくあった。ファンクスほどボケーッとしているレスラーはちょっと見当たらない」
リング上では一瞬の隙も逃さず、相手の関節を的確に絞り上げる緻密なレスリングマスターが、プライベートでは時間にルーズで、どこか間の抜けたような大雑把な性格だったというのだ。
この人間味あふれるエピソードこそが、ドリーという男の愛すべき一面を端的に表している。
血も涙もない完璧なサイボーグではなく、良い意味での「ズボラさ」を持ち合わせた血の通った一人の人間としてマットに上がっていたからこそ、ドリーの紡ぐプロレスは観る者の感情を激しく揺さぶったのである。
■ NWA王者としての「受けの美学」と、貪欲な「プロレス頭」

ドリーのレスラーとしての黄金期は、1969年2月に28歳という若さでジン・キニスキーからNWA世界ヘビー級王座を奪取してからの、約4年3か月に及ぶ長期政権時代である。
これは“鉄人”ルー・テーズに次ぐ、同タイトル史上2番目の長さであった。
なぜ、これほど長期間にわたって頂点に君臨し続けることができたのか。その最大の理由は、類まれなる「受けの美学」にあった。
ドリーは自らの技を一方的に押し付けて秒殺するような試合はしなかった。
挑戦者の持ち味を極限まで引き出し、相手の攻撃を全て受け切った上で、最後に自らの引き出しを開けて勝利をさらうという、世界王者としての圧倒的な懐の深さを持っていた。
1969年の冬に初来日を果たした際、大阪と東京で連日行われたアントニオ猪木、ジャイアント馬場との60分フルタイムドローという日本プロレス史に残る激闘も、ドリーの「相手の良さを絶対に消さない」というプロレス哲学があったからこそ成立した究極の名勝負である。

どんな挑戦者が相手でも決して試合を壊さず、最高級のパッケージとしてファンに提供する。それこそが最高峰の王者に求められる絶対条件であった。
どんなハプニングが起きても動じないのも王者の証である。1971年にカリフォルニアで行われたミル・マスカラスとのNWA王座防衛戦はノーコンテストに終わったが、後年マスカラスはこう語っている。
「詳しい内容は憶えていないけど、誰かが乱入したと思う。ジョン・トロスかピーター・メイビアか…」
対戦相手すら記憶が曖昧になるようなカオスな状況でも、ドリーは王者としての威厳を保ち、興行を成立させていたのである。

さらに、ドリーのリング上における賢さは、他者の優れた技術を貪欲に吸収し、自らのオリジナルとして昇華させる能力にも表れていた。
代名詞とも言える「ダブルアーム・スープレックス」や「エルボー・スマッシュ」は、もともとは欧州の強豪ビル・ロビンソンとの激闘の中で相手の動きを観察し、文字通り「盗み取った」技である。
ロビンソンの高速でシャープな放物線とは異なり、ドリーのダブルアームは相手をゆっくりと持ち上げ、大きく円を描くように叩きつけるという、アメリカンプロレスならではのダイナミックなタメがあった。
だからこそ、日本では「テキサス・ブロンコ・スープレックス」と呼ばれ、大熱狂を呼んだ。
良いものは素直に認め、自らのフィルターを通して発信する。その柔軟なプロレス頭こそが、トップ戦線を張り続けられた要因である。














