【追悼】“グレート・テキサン”ドリー・ファンク・ジュニアさん死去 日本中を熱狂させた「ザ・ファンクス」の兄が駆け抜けた85年の軌跡

■ 弟テリーとの固い絆と、裏方としての卓越した手腕

ドリーを語る上で絶対に欠かせないのが、実弟テリーとのタッグチーム「ザ・ファンクス」の存在である。

理詰めで冷静沈着な兄ドリーと、感情剥き出しで荒々しいファイトを身上とする弟テリー。

相反する個性が見事に融合したこのタッグチームは、1970年代から80年代にかけての日本のプロレス黄金期を華やかに彩った。

1977年の暮れに行われた世界オープンタッグ選手権最終戦。

アブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークの凶器攻撃により、テリーが右腕をフォークでメッタ刺しにされる凄惨な光景は、今もファンの脳裏に焼き付いている。

血だるまになりながらも愛する兄を助けようとするテリーと、弟を守るために鬼神のごとく反撃に転じるドリー。

そこには単なるプロレスの試合を超えた、本物の「兄弟愛」があった。

ドリーは、弟の破天荒な動きを後ろからしっかりとコントロールし、タッグチームとしての絶妙なバランスを保っていた。

荒削りな弟が縦横無尽に暴れ回れたのも、最強のストッパーでありナビゲーターである兄が常に控え室やエプロンにいてくれたからこそである。

また、プレイヤーとしてだけでなく、全日本プロレスにおける外国人レスラーのブッカー(マッチメーカー)としても多大な貢献を果たした。

スタン・ハンセン、ボブ・バックランド、テッド・デビアスといった未知の強豪たちを次々と日本のファンに紹介したのもドリーである。

当時の全日本プロレスが、常に新鮮でスケールの大きな外国人レスラーの宝庫であったのは、ドリーの全米に張り巡らされた広いネットワークと、レスラー仲間からの厚い信頼があったからこそ成立していた。

プロデューサーとしても超一流の手腕を発揮していたのである。

 

■ 国境を越え、世代を越えて受け継がれる「ドリーのDNA」

現役の第一線を退いてからのドリーの最大の功績は、プロレス界の未来に蒔いた「種」の多さである。

地元フロリダ州オカラに設立したプロレスリング・スクール「ファンキン・コンサーヴァトリー」では、数え切れないほどのトップスターを丹念に育成した。

日本ではジャンボ鶴田や天龍源一郎、西村修がドリーのエッセンスを受け継ぎ、アメリカではカート・アングル、エッジ、クリスチャン、ハーディー・ボーイズといった、後のWWEを背負って立つメガスターたちがドリーの教えを請うた。

ドリーの指導の根幹にあったのは、派手な大技や危険なスタントではない。

基礎的な受け身、正確なロープワーク、そして何より「観客の感情をどうコントロールするか」というプロレスの深い心理学であった。

ドリーのDNAは、国境を越え、世代を越えて、現在の世界のプロレス界の至る所に脈々と息づいている。

WWEの最高コンテンツ責任者であるトリプルHが、リングでの戦歴だけでなく、何十年にもわたる指導者・育成者としての功績を絶賛したのも当然のことであろう。

そして、ドリーにとって日本は単なる出稼ぎ先ではなく、心から愛する第二の故郷であった。

全日本プロレスのPWF会長職を務め、2001年には新日本プロレスのリングにも上がった。

2019年にはジャイアント馬場の没後20年追善興行に来場し、かつて血で血を洗う抗争を繰り広げた怨敵ブッチャーの引退セレモニーに駆けつけ、花束を贈るという粋な計らいも見せた。

驚くべきは、83歳を迎えた2024年8月、川崎で行われた大仁田厚の記念大会に出場し、愛弟子である西村と組んで電流爆破デスマッチのリングに立ったことだ。

文字通り命を削るような過酷なリングであっても、日本のファンが求めるならば決して背を向けない。

最後までプロレスラーとしての情熱を燃やし尽くしたその姿は、我々に畏敬の念を抱かせるに十分であった。

2009年、ダスティ・ローデスがインダクターを務め、弟テリーとともにWWE殿堂入りを果たした晴れ舞台での柔和な笑顔が今も忘れられない。

今頃、天国のリングでは旧知のライバルたちがドリーの到着を待ちわびていることだろう。

馬場と懐かしい談笑を交わし、先に旅立っていたテリーと熱く抱擁し、鶴田にエルボーの打ち方を再指導しているかもしれない。

スピニング・トー・ホールドの軽快なリズムに乗って、グレート・テキサンは永遠の伝説となった。

プロレスの奥深さ、美しさ、そして人間味を我々に教えてくれた偉大なるマスターに、心からの感謝と哀悼の意を表したい。合掌。

<写真提供:伊藤ミチタカ氏>

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