【編集長コラム】「追悼 ドン荒川さん」
ドン荒川さんが、11月2日に亡くなっていた。
マット界の訃報を聞く度に「信じられない」と思うのだが、今回は特に強くそう思った。
「あんなに元気な人だったのに…」と。
数年前にお話を伺った時には「荒川節」は健在そのもの。楽しい思い出話を、次々と披露していただいた。ただ「交通事故の後遺症」と顔を曇らせ、慎重に一歩一歩、ゆっくりと歩いておられた。「体調が芳しくない」という話をあちこちから聞いていたが…。
荒川さん、この長寿の時代に、享年71歳は早いですよ。
明るく元気で、にぎやかな楽しい人だった。サービス精神旺盛なムードメーカー。
会場では彼がいるだけで、その場がパッと明るくなった。
昭和の新日本プロレスに欠かせない存在で、「前座の力道山」として大活躍。
当時は珍しかった、コミカルスタイルの草分けで「ひょうきんプロレス」と称され、客席を沸かせファンを喜ばせた荒川さん。
ストロングスタイルを標榜する新日本プロレスにあっては、異質なレスラーでもあった。
ずっこけて見せ「立てぃ!」と大げさに相手を挑発するなど、ひょうきんなファイトに
「ああいう試合を許すなんて、猪木も丸くなったものだ」と、いう見方も一部にはあった。
だが、実力は折り紙つき。
練習熱心で、力も強く、ベンチプレスを誰よりも上げていた。
いつもコンディションが良く、体もパンパンに張っていた。
実力があるからこそ、基礎がしっかりしているからこそ、映えるひょうきんプロレスだったのかも知れない。
「練習しているものね」と、力道山のようなポーズで胸を張っていたのが懐かしい。
実際に鬼軍曹と恐れられた故・山本小鉄さんも、荒川さんには注意も何もしていなかった。
それは、荒川さんのたゆまぬ努力と実力を承知していたからに他ならない。
いつだったか「前座戦線も良いですが、実力があるのだから、もっと上を目指さないのですか?」と聞いたことがある。
すると「いやいや、俺がセミやメインに出たらチャンピオンになっちゃうよ」と豪快に笑った。
荒川さんは、自分の試合が終わると、すぐにシャワーを浴びて、ライオンマークのTシャツに着替え、観戦に訪れていた関係者、後援会、スポンサーの案内や、セコンド業務など、忙しく動き回っていた。
「大変ですね」と声をかけると「じっとしているのが苦手なの。忙しい方が好きなの」とニッコリ。「さっきまで試合をしていた選手が、いろいろと気を使ってくれる」と、関係者の人たちから絶大な支持を得ていた。
試合のみならず、見えないところでも、陰から新日本プロレスを支えていた。
「また来てくれたの」などと、ファンにも声をかけ、若い記者にも気を使ってくれた。
夜の付き合いも積極的。
飲んで飲んで、飲みまくり、みんなが帰るまで帰らない。
「営業部長は俺」と豪語していた。
愛嬌のある人だったが、サービス精神が旺盛すぎて、お世辞お愛想が行き過ぎてしまい、親しい人とトラブルになったり、仲間のレスラーともスポンサーを巡って、口も利かない犬猿の仲になったこともあるようだ。
でも、どこか憎めない人だった。
良くも悪くも「昭和のレスラー」だった荒川さん。
天国では、憧れの力道山さんに、愛嬌たっぷりに挨拶していることだろう。
元気な時は、よく電話をかけて来てくれた荒川さん。
電話魔と言っていいぐらいだった。
「外からでも電話できる携帯電話は、夢のようだね」と言い、何台も使いこなしていた。
「今度、あの人を紹介するよ」あるいは「あの人を紹介してよ」等、人と人とのつながりを大事にしていた。
もうかかって来ることはないけれど、削除するのは忍びない。
荒川さんの番号は、ずっと消さないでおきます。
先に逝ったレスラーたちの間でも、きっとムードメーカーになっていることでしょう。
どうぞ安らかに。合掌。