【俺達のプロレス名勝負列伝・第一回】最後の聖戦(ジャンボ鶴田VS三沢光晴 1992.4.2全日本プロレス)

プロレスブロガーのジャスト日本です。今回から「プロレスTODAY」さんでコラムを書かせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。

コラムテーマは私ジャスト日本が選出するプロレスにおける数々の名勝負を紹介する「俺達のプロレス名勝負列伝」。第一回は、1992年4月2日全日本プロレス・横浜文化体育館大会で行われた「チャンピオン・カーニバル」Aブロック公式戦・ジャンボ鶴田VS三沢光晴戦です。

この試合は私がプロレスファンになった直後にテレビで観た試合で、リアルタイムでは唯一の鶴田VS三沢戦でした。鶴田は当時41歳。全日本の絶対エースとして君臨し、怪物の名をほしいままにしていました。一方の三沢は当時29歳。会場人気ナンバーワンで鶴田に肉薄する全日本の若きエースでした。そして二人ともテクニックもサイコロジーも長けたプロレスの天才同士です。

試合は序盤から鶴田がスリーパーホールドで三沢を再三絞め上げていき、三沢を追い込みます。実は鶴田は前年(1991年)9月に世界タッグ戦で三沢のフェースロックの前に屈辱のギブアップ負けを喫していました。三沢のフェースロックに対抗するために鶴田はスリーパーホールドに磨きをかけ公式戦でも対戦相手を絞め落としていたのです。スリーパーを皮切りに試合は鶴田ペースで三沢は防戦一方。

だが試合が15分過ぎになると三沢の反撃が始まります。ここで三沢が用いたのがセカンドロープからの背面エルボーパット、トップロープからのダイビング・エルボードロップなど当時あまり使っていなかったパターンのエルボー攻撃でした。

試合は終盤になると鶴田は必殺技・バックドロップを放つも、三沢はカウント2で返す。対する三沢もかつて鶴田をギブアップさせたフェースロックを仕掛けます。

一進一退の末、試合は30分時間切れ引き分けに終わりました。後に三沢は「鶴田がスリーパーにこだわってくれたから、引き分けに持ち込めた」と語るほど試合内容は鶴田の方が7-3で優勢で、もしこの試合に判定をつけるなら鶴田かもしれません。

だがこの試合を改めて見直すと新発見があったのです。鶴田VS三沢は、三沢が二代目タイガーマスク時代も含めて5回行われているのですが、今までは鶴田の試合運びや技量に三沢が付いていく展開だったのですが、この試合では鶴田と三沢が互いの器量をぶつけあって、三沢が時折鶴田を引き出そうとしていたような試合だったように思えます。先輩・後輩、師匠と弟子という上下関係から真の意味で解き放たれたのが1992年4月2日の鶴田VS三沢だったのです。

そしてこれ以降、鶴田VS三沢は行われることはありませんでした。鶴田は同年(1992年)11月、病魔に倒れ、第一線から離脱します。鶴田の後を継ぐように全日本を支える大黒柱となったのが三沢だったのです。二人の天才が繰り広げた最後の聖戦には「プロレスの奥深さ」が詰まっているのです。

 

 

 

ジャスト 日本

プロレス考察家/プロレスブロガー
1980年5月11日福岡県出身(和歌山県在住)。
1992年にテレビ放映されていた「ワールドプロレスリング」で新日本vs誠心会館の異種格闘技戦を見て、リングから放たれた圧倒的熱量に魅了され、プロレスファンとなる。
新日本、全日本、UWF系、インディー団体、アメリカンプロレス、ルチャ・リブレとありとあらゆるスタイルに触れることで、プロレスというジャンルとプロレスラーという生き方に深く興味を持つ。
現在アメブロで「ジャスト日本のプロレス考察日誌」を更新中。 2017年9月に初の著書・電子書籍「俺達が愛するプロレスラー劇場 Vol.1」が発売。
著書 俺達が愛するプロレスラー劇場 Vol.1(ごきげんビジネス出版)
俺達が愛するプロレスラー劇場 Vol.2(ごきげんビジネス出版)

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