【編集長コラム】「進化するデスマッチ」
※試合前にデスマッチアイテムを最終チェックする菊田
大日本プロレスのデスマッチ部門はじめ、日本マット界のデスマッチは、日々、進化を遂げている。
有刺鉄線、画鋲、蛍光灯、カミソリ、空き缶、フォーク、ハンマー、梯子、コンクリートブロックなど、素材となる凶器を集め、束にし、大型化する。凶器は形を変え、新たな脅威を生み出す。デスマッチアイテムの進化は果てしない。今やデスマッチのワンダーランドである。
デスマッチファイターはそれぞれ、得意とするデスマッチアイテムを考案しているが、大日本プロレスでは、伊東竜二や菊田一美を中心に、作成されているという。
菊田は「とんでもないアイデアが徐々に、具体化していく様子は楽しい」とニンマリ。
※使用前の空き缶ボード
思えば、デスマッチも当初は「金網」ひとつだった。2010年5月に亡くなったラッシャー木村さんが、国際プロレスで臨んだ一戦が日本初のデスマッチと言われている。
1970年10月8日、大阪府立体育会館の「ラッシャー木村VSドクター・デス」。実はその始まりは、電撃決行だった。
目玉選手として招聘予定だったスパイロス・アリオンが、日本プロレスとの政治的問題で、来日中止。当初、予定されていたサンダー杉山とのIWA世界シングル戦がキャンセルされ、代替カードとして急浮上したのが、遺恨が勃発していた木村とデスの完全決着戦であり、金網デスマッチだったのだ。
関係者が慌ててアメリカの写真を参考に金網を製作したが、余りにも急いだせいか、金網に出入口を付け忘れてしまった。入退場には苦労するなど、デスマッチ黎明期は何かと大変だったようだ。
当初、国際プロレスは、金網デスマッチは一回限りと考えていた。しかし、その話題性と人気に、全国のプロモーターから「是非うちの興行でも」と要求され、各地で行うこととなった。
ただ、流血がおびただしく、中継していた東京12チャンネル(現テレビ東京)は、選手の悲鳴などが流れる中、度々「このシーンは凄惨なため、放送を自粛します」というテロップとともに客席、あるいは水面を優雅に泳ぐ白鳥の姿を映し出していた。
およそ半世紀前にスタートしたデスマッチは、日々、バリエーション豊かになっているが、その歴史をたどると、より一層、背筋がゾクゾクしてくる。
※菊田とともに凶器を作成するデスマッチファイター