日本プロレス史を語るのに欠かせない馬場元子さんの思い出
4月14日は2018年に亡くなった馬場元子さん(享年78)の命日。日本プロレス史を語る上で欠かせない人である。ジャイアント馬場さんを支え、馬場さん亡き後も社長、オーナーとして全日本プロレスをけん引し続けた。
馬場さんは1999年に他界。その後の元子さんは「馬場さんの全日本を守らなくては」と必死だった。あくまで「馬場の全日本」にこだわった結果、三沢光晴・新社長と対立。ノアを旗揚げした三沢に大半の選手がついていき、全日本は団体存亡の危機に陥った。
それでも、新日本プロレスとの対抗戦を経て、武藤敬司が全日本に移籍。武藤・全日本の体制が出来上がると、オーナーの座も勇退し、公の場から退いていた時期もあった。

<写真提供:伊藤ミチタカ氏>
秋山準体制となった全日本の役員に就任も、目立った動きはしなかった。曙の「王道」に出資するも曙の病気によって、王道も活動停止となった。
晩年は闘病生活を送り、兵庫・明石市の本松寺に馬場さんとともに眠っている。
馬場さんのことを「馬場さん」と呼んでいた。1982年春に取材を始めたが、当時は馬場さんとの結婚は公にされていない。全日本の会場でいつもお見かけし、挨拶はしていたものの、謎の女性だった。日本テレビのプロデューサーから「馬場さんの奥さんだよ」とささやいてもらい、やっと合点がいったものだ。
先輩記者は誰も教えてくれず「ここは知らない方がいいのだな」と判断。あえて聞くこともしなかった。その年の夏、スクープ記事が一面を飾った。「ええッ! 本当ですか」と驚くふりをする、入社3か月の自分がいた。

きちんと自己紹介すると、少しづつ会話も交わせるようになる。最初は様子見で距離を取るが、懐に飛び込むと馬場夫妻はともに優しかった。88年の私の結婚式にはお二人で出席してくれて友人や親類はびっくりしている。
「アッチ行け、といってもニコニコして離れないんです。柴田クンは」と馬場さん。新人記者時代を思い出す最高の誉め言葉? をいただいた。会場は大爆笑となったが、隣で元子さんが「そんなこと言ってはダメダメ」と、馬場さんをつついていた姿が忘れられない。
予定していなかった二次会が急きょ開かれたが、どうやら馬場さんがスポンサーだった。当初、うかつにもその成り行きを知らずにいた。新婚旅行から現場復帰したときに「結婚式にご列席ありがとうございました」とお礼の挨拶をすると、怪訝な表情の馬場さんは「柴田クン、他にも言うことあるだろう」とポツリ。
他の選手からいきさつを指摘され「ええ!? 知らずに失礼しました。ありがとうございました」と頭を下げると、いつもの馬場スマイルで応えてくれた。

そういえば、地方サーキットで珍しく電車移動の馬場夫妻と一緒になったことがある。駅弁を差し入れると、馬場さんは「いくらだった? 馬場におごった、と言われたくないからな」と元子さんに財布を出すように促した。
「いえ、ここはいつものお礼です。大丈夫です」と胸を張ったところ、元子さんが「そうね」とサポートしてくれたのだ。
「俺は馬場さんに駅弁をおごったことがある」。初めて言わせてもらいます。ですが、その何百万倍もお世話になりました。天国から見守ってくれているだろうか。それとも「柴田クンは何時まで経っても…」と、あきれて苦笑いしているかな。

元子さんは厳しさの反面、細やかな心配り、気配りをする人だった。日本人はもちろん外国人レスラー、周囲の人間への、本人はもちろん家族を大切にしている。感謝する声をよく聞いた。馬場さんとのコンビプレーはまさに最強タッグ。馬場夫妻は世界プロレス界のナンバー1チームだった。
二人は今の全日本をどう見ているのだろう。「春の祭典」チャンピオンカーニバルが今年も開幕したが、時代は変わり、選手もファイトスタイルもファンの顔ぶれも変わった。ただ、他団体に比べて明らかに大きな選手たちが集う魅力は変わらない。
変わり行くものと変わらないもの。その両方で時は流れて行くのだろう。東京では花の盛りは過ぎた。「桜咲けども人同じからずや」という言葉が胸にささる。(敬称略)
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