西村修、53歳で逝去 プロレスと政治を貫いた「無我の闘士」

プロレスラーとしてのキャリアを築きながら、文京区議会議員としても活動を続けた西村修さんが、53歳の若さでこの世を去った。ステージ4の食道がんと闘いながらもリングに立ち続けた姿は、多くの人々の記憶に刻まれている。

新日本プロレスでのデビューは1991年。藤波辰爾の「無我」の理念に共鳴し、クラシカルなレスリングスタイルを体現した。海外修行でさらに磨きをかけ、2001年にはIWGPタッグ王座も戴冠。

だが、2006年に新日本を退団し、藤波辰爾ら元新日本プロレスの選手が立ち上げた新団体「無我ワールド・プロレスリング」に加入するも短期間で離脱。その後は全日本プロレスを経て、2010年には政治の世界へと足を踏み入れた。


「写真提供:伊藤ミチタカ氏」

2011年、文京区議会議員選挙で初当選。政治家としても独自のスタイルを貫いた。議会では歯に衣着せぬ発言が注目を集め、地域に根ざした活動を続けた。プロレスラーと議員、二足のわらじを履きながらも、どちらの道も決して妥協しなかった。

だが、2024年に病が発覚。食道がんのステージ4という過酷な現実を突きつけられながらも、「プロレスラーは戦うもの」という信念のもと、闘病とリングを両立させた。その象徴的な試合が、2024年8月の電流爆破マッチだった。

FMWEが8月24日、神奈川・富士通スタジアム川崎(旧川崎球場)で「テリー・ファンク一周忌追悼・大仁田厚デビュー50周年記念大会『川崎伝説2024』」を開催し、師と仰ぐ“グレート・テキサン”ドリー・ファンク・ジュニアのパートナーとして、大仁田厚&雷神矢口と対戦。

すでにがんは全身に転移していたが、「やれるところまでやる」と出場を決断。火花が散る爆破の中で、西村さんはプロレスラーとしての魂を燃やした。


「写真提供:伊藤ミチタカ氏」

それでも病魔の進行は容赦なかった。2025年1月、ジャイアント馬場没25年追善大会への出場を予定していたが、ついにリングに上がることができなくなった。代わりに、かつての師である藤波辰爾がその穴を埋めた。無我を離れた際に関係が絶たれた二人だったが、このときばかりは藤波が代役を買って出た。西村さんは感謝の意を表し、最後まで闘志を失わなかった。

2月16日の西村さんのSNSでは、「生きてるのか死んでるか、わからないくらい苦しかったこの一週間。しっかり生きています プロレスで鍛えた体力がまだまだ冴え渡る。あとは、これ以上落ちれないから、上がるだけ 頭は変わらず禿げてますが、こちらも生やすだけ 落ちた筋肉も、あとは増やすのみ 人間は、諦めたらおわり。あと数日にて議会復帰します」とメッセージを残していた。

最後まで闘志を燃やし続けた姿は、多くの人々の胸に響いた。

プロレスラーとしての美学、議員としての信念。そして、病と闘いながらも最後まで前を向き続けた生き様。そのすべてが、西村修という男の生きた証であった。

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