追悼・西村修 「魂の終わりなき旅」 

【柴田惣一のプロレス現在過去未来】

「無我」西村修が2月28日、天国に召された。昨年4月、2度目のガンとの闘いに突入。闘病中にも関わらず電流爆破マッチに出陣するなど、レスラー人生を全うした53年の生涯に幕を下ろした。

プロレス学校から新日本プロレスに入門。当初は細くて「もやし君」と呼ばれ体作りには苦労していた。厳しい指導に救急車で運ばれたこともあった。

26歳の時一度目のガンに罹患。手術はしたものの抗ガン剤、放射線治療など西洋医学とは一線を引き、食事療法と漢方で乗り切った。


「写真提供:伊藤ミチタカ氏」

この経験がその後の彼の人生に大きな影響を与える。「ゆくゆくは食育を提唱する議員になりたい」と決意し、実現させた。そして「一度しかない人生。今を大切に」と、より行動的になった。世界中を旅し、食事では土地の名産品や旬のモノを楽しんだ。

欧州で猪木と落ち合い、ホテルのバーでプロレスや人生について語りあった。シルクロードの東と西の出発点からスタートし、出会ったところで試合をするプランが浮上。「いつかは…」というプランは夢に終わってしまった。

そんな猪木とともに尽力し「神様」カール・ゴッチの墓を日本に建立。東京・南千住の回向院には立派な大名墓が出来上がった。墓誌には猪木と西村の名前が刻まれている。ゴッチが大好きだった赤ワインを供えるファンが絶えない。

皇居近くの日比谷公園には「無我・西村修」のプレートつきのベンチがある。百周年記念事業で寄付。公園のシンボルである噴水の真ん前のベストポジションに置かれ、訪れたファンが記念写真に収めている。公共事業に貢献したことで具体的に議員を目指すようになった。

何事にもチャレンジし、地元の文京区議会議員としても活躍。「皆さんの意見、要望を聞くことから始まります」と地域に密着した活動に熱心に勤しんでいた。

特に力を入れていたのが、議員を目指すきっかけとなった食育だった。1度目のガンに食事療法で勝った経験を基に、文京区立の学校の給食メニューに取り組んでいた。


「写真提供:伊藤ミチタカ氏」

すでにステージ4だった今回のガンでは、さすがに放射線や抗がん剤に頼った。プロレスで養った体力で踏ん張ったが、ついに力尽きてしまった。

心残りがある。悔しくてたまらない。ガン検診に行くようにと何度も進言したのだが、体力に過信があったのか「いいんです。大丈夫です」と拒否。自覚症状がでるまで、一度も行かなかった。早期発見していたら…悔やまれてならない。

ゴッチの影響で葉巻をたしなみ、欧州で覚えた試合前の赤ワインを始め、酒がエネルギー源だった。日本でも体が温まると、ファイト前に軽くワインを補給していた。

慶応義塾大学通信教育学部に入学し哲学を専攻した。数年前、伊藤園の俳句大賞で入賞したこともある。

あるファンが亡くなったお父さんに「肩車してもらった記憶がない」と悲しそうにつぶやくと早速、肩車してあげた。それを詠んだ句「肩車 しても届かぬ 天の川」が入賞作品だった。

西村の魂は、空高く天の川まで行ってしまった。

昨年の3月にガンと診断されてからは、あんなに好きだったお酒を断っていた。でももう我慢しなくてもいいよ。空の上で、猪木、ゴッチ、ヒロ・マツダら師と仰いだ方々、朋友の吉江豊たちと乾杯してください。涙で曇るかも知れませんが、私も空を見上げて献杯します。(敬称略)

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