惨敗新人の奮闘に胸を打たれレスラーになった清水ひかり。3・16引退試合で最後のリング!

【WEEKEND女子プロレス#53】

 COLOR’S(カラーズ)の清水ひかりが、3月16日(日)東京・新木場1st RINGでのカラーズ興行「YES MY WAY Vol.14~ひーちゃん引退します~」でプロレスを引退、約8年間の現役生活にピリオドを打つ。23年10月に椎間板ヘルニアと診断され長期欠場。昨年10月にwaveで復帰し、さまざまな団体のリングに上がってきたのだが、ここからというところで無念のドクターストップ。大事に至る前に第2の人生に踏み出すことを決意したのである。

 愛媛県宇和島市出身の彼女は歌手にあこがれ、歌って踊れるボーカリストをめざしていた。高校卒業後、「まずは就職を」という両親の願いからいったんバスガイドとして働き、その後上京。ライブハウスで仕事をしながらダンス講師としても働き、同時にダンスボーカルユニットのリーダーとしての活動もはじめていた。

 夢の実現に向けて動いていた頃、ライブMCとして来ていた仁科鋭美(引退)と出会い、彼女がアクトレスガールズのプロレスラーであることも知る。そして、彼女の誘いから初めてプロレスを生観戦。そこで見た光景に清水は衝撃を受けた。人生が変わった瞬間だ。

 そのとき、リング上から清水の心をわしづかみにしたのが、まだデビュー10戦目の中野たむだった。相手は、全日本女子プロレス黄金時代を知る大ベテランの伊藤薫だ。

当然のごとく、力の差は歴然。それでも、やられてもやられても向かっていく中野の姿に勇気づけられた。圧倒したレジェンドより、惨敗の新人レスラーの方に感情移入したのである。

「プロレスってこんなに人の心を動かすんだ、自分もやってみたい!」そう感じた清水は、芸能活動とプロレスの両立が可能なアクトレスガールズに入門。そして17年3・5新木場で、人生を変えた中野を相手にプロレスラーデビューを果たしたのである。

 しかし、21年をもってアクトレスガールズはプロレス団体のとしての活動を終了してしまう。選手たちは個人でその先の選択を決断し、プロレス継続派も団体所属やフリーなど道が分かれた。清水は大好きになったプロレス継続を選び、SAKI、櫻井裕子、網倉理奈とともにカラーズを結成。ユニットの自主興行とともに、フリーとして多くの団体に上がるようになった。カラーズはBeginning(ビギニング)と並ぶアクトレスガールズの2大ブランドのひとつ。リーダーのSAKIがブランド名をそのまま引き継ぎ、新たな船出をしたのである。

 清水は当時、SAKIとともにwave認定タッグ王座のベルトを巻いていた。これは、彼女がプロレスで初めて手にする栄冠だった。軌道に乗ってきたところでやめるなんてありえない。また、SAKIを慕う気持ちが、彼女のプロレスに対する愛情をさらに大きくしていったのだ。22年2・12新木場で、心をひとつにした新生カラーズがスタートを切った。

 その後、アイスリボンのインターナショナルタッグ王座をSAKIとのgalaxyPunch!(ギャラクシーパンチ)で戴冠、waveのシングルリーグ戦ではシングルでのメインも経験した。さらには、スターダムで中野と再会。6人タッグマッチで中野に直接敗れるも、中野率いるコズミックエンジェルズとカラーズが共闘路線を敷き、連合軍を結成。清水は22年末のスターダム両国国技館でAZMのハイスピード王座に挑戦するチャンスを得た。

 ところが、wave23年9・30千葉での3WAYマッチを最後に首の負傷により長期欠場、復帰には一年を要した。

もちろん、復帰は医師の許可を得てのもの。戻ってきてからは試合をこなしていくうちに、清水自身にもここからが本番との思いが大きくなっていった。復帰から2カ月後に再検査をおこない、これを通ればさらに最前線に出ていくつもりだった。

振り返れば、19年9月から肩のケガで一年近く欠場したとき、プロレスをやめる選択肢はまったくなかった。今回の欠場にも同様の思いがあったという。そのなかで、「身体が動かなくなることがあるのかもしれないというケースが現実味を増したところがありました。プロレスって、それじたいすごい競技ですよね。そのなかでも、どこか他人事というところが前にはあったんですけど、それがいざ自分の身に起きてプロレスができなくなったときのことも考えないといけない。そういう考えが、今回の欠場中にはありました」とも。

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