“過激な仕掛け人”新間寿さん告別式 藤波と佐山が弔辞「導かれた人生だった」

“過激な仕掛け人”の異名を持ち、新日本プロレスの黎明期から黄金期にかけて数々の話題を創出し続けた元同団体専務取締役営業本部長の新間寿さん(享年90)の葬儀・告別式が4月30日、東京都新宿区の感通寺にて執り行われた。

式にはプロレス界のレジェンドたちをはじめ、政界や格闘技関係者など幅広い関係者が参列し、その功績と人柄を偲んだ。

1970年代から80年代にかけて、アントニオ猪木氏とともに新日本プロレスの看板を背負い、“格闘技世界一決定戦”の名の下にモハメド・アリとの異種格闘技戦を実現させた新間氏は、興行の最前線に立ちつつ、藤波辰爾、佐山聡といった次世代スターの育成にも深く関与した。特に“初代タイガーマスク”の誕生は、新間氏の情熱と仕掛けの粋ともいえる象徴的な出来事である。

葬儀では、プロレス界を代表して藤波辰爾氏が弔辞を述べた。ゆっくりと口を開いた藤波氏は、「あなたと出会い、プロレスラー藤波辰爾は大きく飛躍しました」と語り始めた。1978年、藤波が米国マジソン・スクエア・ガーデン(MSG)でWWWFジュニア・ヘビー級王座を奪取した際、新間氏は「カンペオン!」と叫びながら迎えてくれたという。

「『何かしろよ』とあなたは言いました。私はそこから、ドラゴンスープレックス、ドラゴンロケット、MSGでの婚約発表など、あらゆる仕掛けに挑戦しました。今振り返れば、それはすべてあなたの導きでした」と、藤波氏は新間氏の先見の明とプロデューサーとしての才覚を振り返った。「藤波辰爾は、新間寿、あなたの作品です」と言い切り、最後は「新間さん、ありがとうございました。安らかにお休みください」と頭を下げた。

また、もう一人の弔辞者として壇上に上がったのが、初代タイガーマスク・佐山聡氏だった。パーキンソン病を患い、療養中の佐山氏だが、この日だけは車椅子を押されて登壇。「悔しいです……」と冒頭で声を詰まらせながら、「新間さん、あなたは私の第二の父でした。世に出るチャンスをくれたのは、あなたでした」と語った。

1981年、アニメ『タイガーマスク二世』の実写化に際し、新間氏はプロレス界に“タイガー旋風”を巻き起こすべく佐山を抜擢した。「正義の味方を体現できるのはお前しかいない」と言われた佐山は、過酷な修練を乗り越えて“空中殺法”の代名詞となった。「新間さんの『頑張れ』の一言が、病で沈んだ私の心に火を灯してくれた」「声が出なくなっても、あなたの言葉を思い出すと、不思議と力が湧きました」と、佐山氏は最後まで涙をこらえながら述べた。

佐山氏は続けて、「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。新間さんは、まさにそんな人物でした。情熱、気迫、知性、優しさ。そのすべてを備えた方でした」と、その人間性を称賛。「新間さん、まだ別れたくないです。必ず成功するので見守ってください。私たちはやります。またいつか、その大成功の報告をしたいと思います」と力強く誓いを立てた。

この日、会場にはジャガー横田、大仁田厚ら、昭和から令和にかけての名選手たちが次々と焼香に訪れた。告別式の会場では、アントニオ猪木とのツーショット写真や、『タイガーマスク』のポスター、そして多くのプロレス関連のアイテムが並べられ、新間氏がいかにプロレスに人生を捧げてきたかを物語っていた。

“過激な仕掛け人”として、その存在はリングの外でも、誰よりも熱く、強く、そして深かった。新間氏の残した情熱と志は、今もなお、後進たちの胸の中で脈々と生き続けている。

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