はずかし固めで対アイドルの先駆け! コミカル&ハードコア第一人者の宮崎有妃が元日に引退
2026年1月1日のwave東京・後楽園ホールで引退、キャリア31年まであと1週間というところでプロレスラー生活にピリオドを打つ宮崎有妃。NEOでのNEOマシンガンズでコミカルなプロレスに開眼し、waveでハードコア路線にも連結させた。決してナンバーワンではなかったものの、彼女が女子プロレス史に残した功績はかなり大きい。1・1を前に、その事実を本欄であらためて知っていただければと思う。
宮崎がプロレスを知ったのは、ファンだった母と兄が見ていたテレビ放送からだった。全日本プロレスの中継で、彼女も自然とハマっていったのだ。
「最初は、『緑がんばれ!』『日の丸がんばれ!』とか、コスチュームの色で選手を判別していましたね」

Ⓒプロレスリングwave
「緑」とは三沢光晴、「日の丸」が菊地毅をさすのは言うまでもない。「こういうのって大事だと思うんですよ。私を知らない人や子どもにも一目でわかってもらえる。自分もそこから選手をおぼえていったので、いまでも髪やコスチュームの色を工夫するようにしているんですよね」と、宮崎。では、なぜプロレスラーをめざすようになったのか?
「14、15歳の頃、進路を決めるとなって、私はそこで『女子プロレスラー』と書いて学校に提出したんです。ホントは高校に進学するつもりでいたんですけど、母が映画好きでWOWWOWに加入したらJWP女子プロレスを放送していて、女子もプロレスやるんだ!と衝撃を受けたんですね。その後、全日本女子vsJWPの試合があって、JWPが勝ったんです。JWPが一番強いんだと思って、親に内緒でJWPに応募しちゃったんです」
書類審査に合格し、家族に発覚。そこで怒られそうなものだが、ファンでもある母は「デビル雅美、ダイナマイト・関西に会える!」とオーディションに同行。母はまさか娘が受かるとは思ってもいなかった。それは本人も同様だった。

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宮崎は当時、「2年で合格」の計画を立てていた。初めてのオーディションは様子見感覚。一度体験しておけば、テストのメニューにも見当がつくだろう。一回目はとりあえず最低限の体力をつけて臨もうとトレーニングを積んだ。バスケ部引退後、許可をもらい部員と一緒に体力づくり。ボールを使っての練習となると、体育館の隅でひとり自主トレをおこない、オーディションに備えていたのである。
母も娘も、通るとは思っていなかったオーディション。しかし宮崎は合格となり、入寮することになった。母娘とも驚いたのは言うまでもない。
「親に内緒で来るってよくあるじゃないですか。それが私は親同伴だったんです。ということは、親が同意しているってこと。だから私は受かったと思うんです。基礎体は練習していればできるようになるから、オーディションで完璧な必要はないんですよ。ダメでもまたやろうとする気持ちがあるか。そこを見られているんですからね」
この年、JWPの練習生は人材の宝庫。同期には久住智子(日向あずみ)、宮口知子(輝優優)、天野理恵子(カルロス天野)、本谷香名子(美咲華菜)、倉垣靖子(倉垣翼)らがいた。宮崎は第2陣として95年1・8後楽園でデビュー、相手は久住だった。
「デビューした喜びって、あまりなかったと思います。雑用に加えて試合もするようになり、かえって大変になったんですよね。(一番早くではなく)先を越されたのが悔しいのもあったので、ホッとした部分はありますけど」

その3カ月後、宮崎にとって衝撃的出来事があった。長与千種率いるGAEA JAPANが旗揚げ。里村明衣子、加藤園子ら、そこでデビューした選手たちが「驚異の新人」と呼ばれるほどのインパクトを残したのだ。彼女たちは、宮崎らJWPの新人たちと同期にあたる。
「新人同士ですごい試合をしていて、すごく焦りました。ヤバい、私たちもっとがんばらなきゃいけない、このままじゃダメだと思い知らされましたね」
翌年5月、各団体の若手を集めた「第1回ジュニアオールスター戦」が開催された。宮崎も参戦し、全女の椎名由香とシングルマッチ。ジュニアオールスター戦は対抗戦時代から派生した“若手の若手による若手のための大会”と思われがち。新人同士で思いっきりぶつかれると思いきや、実際は…。
「まわりの先輩の視線の方が怖かったです(苦笑)。『潰されるなよ』とか『ぶっ潰してこいよ』とか、プレッシャーがすごくて…。若手だけでやってやると思ってるのに、テンション下がるからやめてって(言いたかった)。あとから聞いたところによると、椎名さんもそうだったとか。圧力がすごかったですね」

その年の10月、宮崎はJWPから消えた。その前夜、地方巡業中に同期を部屋に集めてやめることを打ち明けた。当然、仲間たちはやめないよう説得する。そのときは『一日考えてから』として納得させたが、気持ちは変わらず、次の試合にその姿はなかったのだ。
「あれはもう若気の至りでしかなかったです。その後はファミレスで働いて。バイトが初めての経験だったので、それはそれで楽しかったんですけど、付け人をつとめていたプラム麻里子さんの訃報を聞いて本当に申し訳なくて、途中でやめたことを後悔しました」














