アントニオ猪木会長との22年。元マネージャー、甘井もとゆきさんインタビュー(前編)「猪木会長は偉大なレスラーであり『スターの才能』もある方。その会長に一番肉薄したのが武藤敬司さんだったと思う」

 昨年10月に亡くなったアントニオ猪木さん。その猪木さんとは20年以上の付き合いで、2017年6月から2022年7月末までの5年間は最側近のマネージャーとして献身的に支えたのが甘井もとゆきさんだった。

今回は甘井さんに「アントニオ猪木さんとの22年」を聞いた。(聞き手 茂田浩司)

――私が甘井さんにお会いしたのは元K-1ファイターのノブハヤシさんの紹介でした。当時、ドージョーチャクリキ・ジャパンを設立して、甘井さんが代表になられて、ノブさんが道場の総館長になりましたね。ノブさんとは古くからのお付き合いだったんですか?

「僕はノブハヤシ後援会の中心メンバーだったんです。ノブが徳島、僕が愛媛で同じ四国の同郷みたいな感覚で2000年ぐらいに後援会が発足して、そこが母体になってドージョーチャクリキ・ジャパンを2004年に設立したんです。その時は猪木会長からもお花をいただきましたよ。まだ少し(関係は)遠かったんですけど、猪木会長が格闘技の方をやってくれたおかげで地続きになったんです。リョート・マチダ選手がウチの道場に『練習させてほしい』と来たり、村上一成選手も練習に来ていました」

――そうだったんですね。

「IGFの専用道場が出来る前は、よくIGFの人に『道場を貸してほしい』と言われて、一般の練習時間が終わった後に僕が立ち会って貸したりもしていました。ケビン・ランデルマンのジャンプ力が凄すぎて天井に頭が当たってしまったり(笑)。タカ・クノウ選手が柔道やグラップリングから来たばかりで悩んでいる姿も見ましたけど、当時のIGFには『新しいものを創り出そう』という熱気があって、僕はそういうのが大好きなんですよ」

――猪木さんとは、田鶴子夫人の関係で知り合ったんでしたね。田鶴子さんがカメラマン、甘井さんがデザイナーだったとか。


※左から猪木田鶴子夫人、猪木さん、甘井さん(甘井さん提供)

「そうですね。ズッコさん(田鶴子夫人)は僕の10コ上なので感じとしてはお姉さんみたいな。彼女が六本木で『Bar ZUKKO』を経営していて、そこの客として猪木会長と知り合いました。会長は24歳上で二回り違うので、僕にとってはお兄さんというよりお父さんでした。死んでしまったモノマネタレントの春一番さんは僕の1コ上で、会長に父性を見ていました。春さんと飲んでて、ある時に『(亡くなったら)猪木さんを自分たちで送り出さないといけないね』という話になったらとても嫌な顔をしたのを覚えています。だから春さんが先に亡くなった時は『猪木さんを送り出すことをやらずに先に逝ってしまったんだな』と思ってね」

――春一番さんは猪木さんのモノマネを世間に広めて、猪木さんに人生を捧げた方でしたね。

「春さんの葬儀の時は、猪木会長は国会議員をやっていたので葬儀に行けなかったんです。代わりに僕が行って花輪も出したんですけど『アントニオ猪木』では出せなかったんですよ。春さんには可哀想だったけど、議員は出せないんです」

――議員の場合は寄附行為とされる可能性があるんですね。

「そうなんですよ。だからコーラルゼット代表取締役猪木寛至で出しましたけど、春さんは『アントニオ猪木』で欲しかったでしょうね」

――ああ、そうですよね。甘井さんは、猪木さんとのお付き合いは何年からになるんですか?

「2000年頃からですね。その時が僕、一番楽しかったです(笑)。仕事じゃないから責任ないじゃないですか。IGFの大会に行って、あとで会長に好き勝手に『今日は○○でしたね』とか言ってました(笑)。でも会長とIGFが揉めてしまって、マネージャーをやる人間がいなくてズッコさんに呼ばれて『甘ちゃん、やってくれない?』となったので。そこからはマネージャーとしての責任が付いてくるので……。やはり大変でしたね……」

――猪木さんの訃報の後、SNSを通しても甘井さんのショックの大きさが伝わってきました。どこか落ち着いたタイミングでお話をうかがえたらと思っていました。

「まあみんなショックは受けましたよね。いつか来るとは分かっていましたけど。猪木会長の訃報を聞いて、体調を崩してしまった関係者もいますしね……」

――猪木さんについては、ここ数年「重病説」や「死亡説」まで流れました。そのたびに復活されていたので、それだけに訃報がショックだったということもあります。

「死亡説は、メディアがわざと『本当は亡くなっているんじゃないのか?』と憶測で流すこともありますからね……」

――猪木さんの重病説については、私のところにも何度か問い合わせが来ました。

「大変だったんですよね。当時、契約してたスポンサーからの問い合わせもあったので、それじゃまずいからどこかに情報を出しておかないと、となりました。それでYouTube『最後の闘魂チャンネル』で発信するようになったんですよ」

――甘井さんの中に「猪木さんをどんどん外に出していこう」という思いもありましたか?

「それは思ってましたよ。会長は元々ああいう方なので、外に出ていった方が元気になるので。ただ、お体のことがあるのでそことの兼ね合いがありました。それに、会長は10年以上の付き合いのある方の前でないと、素の『猪木寛至』にならないんですよ。常にアントニオ猪木のままなんです。そういう意味で言ったら、猪木寛至を出せるのは、奥さんと、奥さんの部下で会長の秘書を務めた岩橋さんと僕。この4人で動いていたので、そこでは会長はわがままも言えたんですよ。『疲れた』とか『なんだ、あんなこと言って』とか猪木寛至になれるんですよ。でも、それ以外の人がいるとアントニオ猪木のままなのでそれではリラックスできないですから。そういう時は人を払って、ということをしてましたね」

猪木会長は「スターの才能」もある方。その会長に一番肉薄したのが武藤敬司さんだった。

――猪木さんの傍にいて、気づいたことはありますか?

「会長は偉大なプロレスラーであるのは言うまでもないですけど、スターの才能がめっちゃある方なんですよ。僕は明石家さんまさんなんかも実際にお会いして、話してて思うんですけど、人気の出る人って目の前の相手が一番欲しい答えを言ってくれるんですよ。インタビューを受けても、テレビに出ても。会長はその能力がもの凄く高い人なんですよ」

――猪木さんには何度か単独インタビューさせていただいたので、とてもよく分かります。

「だからスターになったんだと思うんですよ。相手が欲しい言葉をくれる人で、プロレスラーや格闘家の中で会長ほどその才能があった人を僕は知らないです。だからみんなが言うように今さら『第二の猪木』は無理なんですよ。猪木会長をずっと見続けてきたファンもそう思っていると思います。猪木会長がやった『○○の戦いのオマージュ』なんてやっても絶対に面白くないんですよ」

――新日本プロレスの棚橋弘至選手は「誰も第二の猪木にはなれない」といち早く悟り、意図的に「猪木離れ」をして新しい新日本プロレスを打ち出しましたね。

「武藤敬司さんもそうですよね。武藤さんは『会長を利用してやろう』とまで考えてましたからね(笑)。『プロレスリングマスターズ』の時も会長は『出たくない』と嫌がってたんですよ」
*2020年2月28日の後楽園ホールで開催。猪木さんは武藤、蝶野、前田、長州に闘魂ビンタを見舞い、大歓声を浴びた。

 

――出たくない?

「僕も『なんでですか?』と聞いたら『武藤になんかギャラを貰えるかよ』と言うんです。蝶野さんは全然いいんですよ。ということは、一番会長に肉薄したのが武藤さんだったんだと思うんです。Uインターとの全面戦争の時、高田戦の武藤さんを見て会長は『なんだ、あんな胸なんか張りやがって』とか、武藤さんの見栄の張り方とかを結構批判されるんですよね。あれは武藤さんが会長に肉薄したからだと思うんですよね」

――確かに、猪木さんは当時の武藤さんに対して辛らつな評価をしていたのを覚えています。

「それで、武藤さんのマネージャーさんに『プロレスリングマスターズの話をしたら会長の機嫌が悪いんですよ』とお伝えしたら『ホテルオークラ(*猪木さんの取材場所といえばここだった)にはいつ頃いらっしゃいますか? 偶然を装って武藤を行かせますから』と(笑)。それで実際に武藤さんが来られて、会長に直接お願いしてOKになったんです。武藤さんは凄いですよ(笑)」

――猪木さんも直接お願いされると断れなかったんですね(笑)。

「だから、そういう意味では会長の影響力がどれだけ強いかを知ってる人こそが会長を越えていくんだと思いますよ。武藤さんとか、中邑(真輔)選手とか」

――分かる気がします。

「ただし、会長ってその相手にピンポイントでいい言葉を投げるじゃないですか。太陽みたいな方で、いろんな人にピンポイントで投げるんですよ。でも貰った人は『俺が猪木会長の一番の理解者だ』と思うわけですよ。でも、こことそこではまったく違うことを言っていたり、会長は手のひらで転がしてしまうんで。そういう人がみんな『俺だけのアントニオ猪木』になってしまうんです。みんなそうなんですよ。だから、そういう意味でいろんな人が『俺ひとりのアントニオ猪木』にしたいんだろう、というのは分かりますね」

 

新日本プロレスとの関係修復。オカダ・カズチカと「Number」の表紙を飾った訳。


©文藝春秋

――甘井さんがマネージャーとして取り組んだことの1つが新日本プロレスとの関係修復だったと思うのですが。

「一番最初はISM(イズム)という団体をやる時に、僕の知り合いが木谷(高明)さんとも知り合いで『木谷さんと話がしたい』と議員会館にお越しいただいたんですよ。それで会長が『そういうことで協力して貰いたい』と言ったら、木谷さんも快く『ウチも選手を出すことを考えます』と。木谷さんは昔からの猪木ファンだから、会ったら会ったで話は合うんです。それで、今だから言ってもいいと思いますけど、木谷さんから『北村(克哉)選手を出しましょうか。彼だったら多分、合うんじゃないか』と提案して貰いました。それで会議に掛けたところ、木谷さんとタイガー服部さん以外は全員反対だったそうです(苦笑)。それを聞いて、新日本は無理だな、と思ったんですよ」

――そうだったんですか。北村選手のISM出場は面白いアイディアでしたね。

「そうしたら、その後に突然、新日本から電話があったんですよ。『札幌でオカダ・カズチカがいきなり猪木会長の名前を出して、明日、記事に載ってしまいます。すいません』というんです。いや、勝手に名前を出されてすいませんで済ましたらウチもカッコ悪い感じになるし、内々の相談もなく名前を出したオカダ選手を怒ったとしても、うやむやにしてファンをしょんぼりさせるのも良くないから、何か着地させないといけない。だから『何かいいところを考えましょう』と話し合って、それが『Number』の表紙だったんですよ(*2020年7月16日号)。プロレスマスコミ以外の媒体で会長とオカダで表紙を飾り、対談をするという形で着地させたんです」

――スペシャル感があって、とても印象的な表紙でした。

「あれから新日本の選手が会長に会いに来るようになったんです。一度、新日本の同窓会のような集まりが宮戸優光さんのちゃんこ料理屋であって、坂口征二さんと小林邦昭さんが棚橋選手を連れてきたりね。写真を撮ったらダメですよという話はしたんですけど、長州さんがSNSにアップしてました(笑)」

――長州さんらしいですね(笑)。

(後編に続く)

▼アントニオ猪木会長との22年。元マネージャー、甘井もとゆきさんインタビュー(後編)
「それぞれが心の中に『アントニオ猪木』を持ち、一歩踏み出すしかないですね」
https://proresu-today.com/archives/211406/

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