【新日本】中西学が引退を発表!2.22後楽園がラストマッチに


7日、都内・新日本プロレス事務所にて会見が行われ、野人として愛されてきたパワーファイター、中西学の引退が発表された。

菅林会長「中西学の引退が決定しました。2/22の後楽園ホール大会を引退興行とします。」

会見には中西学本人が現れ、心境を語った。

中西「今日はどうもありがとうございます。2020年2月22日後楽園ホールで引退致します。首の怪我が原因で思うような戦い方ができなくて。ズルズルこの状態を続けているよりも、しっかりとケジメをつけて、いつまでもこんなことできるというよりも、今自分の中にある熱いものを2月22日までに全部使い切って。思いっきり引退の日までダッシュして見事にレスラー人生を全うしたいと思います。自分からは以上です」

――引退を決意されたということですが、同時に引退の日も決まりましたが、その日まで最後に戦いたい選手や引退ロードで戦いたい選手はいますか?

中西「ハッキリいって誰とでも戦いたいですよ。ただこの時期、年明け手からかなり無理を言ってますよ。僕の1月いっぱいで契約が終わるわけじゃないですか?誰と戦居たというよりも新日本プロレスが用意してくれるその選手と戦いますよ。新日本が最強だと思う自分に対して組んでくれる、それは最高の試合になるはずです。そのために全てを集中して2月22日まで突っ走りたいです」

――引退を決意されたのは具体的にいつ頃で?

中西「昔の動きができない。そういう時期があったんで。気持ちの中でこれはどうすこともできんのか、去年の暮ぐらいから会社とも話して。今回に至ったわけですが。ケガをして回復したのは驚異的だったのですが、その次にいけなかったのが自分の責任でもありますけど、自分がもっと行きたいけど行けないというのがあって。これはもう責任をとるしかないなと。こういう状況で自分が好きだったプロレスにこういうことをしてはいけないなと」

――同じ第三世代に言うことは?

中西「言うことがあるなら本当に残された試合、全ての試合にこの3人には協力して欲しいですし。一緒に戦いたいですし逆に対戦もしたいし。まぁ引退の時に計算してみて27年と4カ月なのかな?28年かわからんけど。ずっとそばにいたこの3人ですから。だから思い入れもそうですし、肌で感じてるものがありますから。それを感じながら最後全うしたいですね」

――振り返って思い入れのある試合は?

中西「この3人それぞれのシングル戦ですね。本当に数限りなくやってるし、若い時にもアメリカから修行から帰ってきた時にも当たってますし、どの試合にもその時のベストというか意地を出してやってますよ。みんな得意な所があって苦手なところもあって、負けなくないという気持ちでチャンスがあれば自分の得意な方にもっていくというそういう試合をしてきたし。負けたくないけど彼らがふがいない試合をすると凄い悔しい思いをしますよね。逆に永田も小島さんも天山さんもそういう気持ちがあったんじゃないですかね。とにかく協力してくれるとは思うんですけど、こっちからもお願いして。どんどん絡んでいくというかそういう風にしていきたいですね」

――後楽園大会で引退とのことですが、引退後のビジョンは?

中西「会社と話をして決めていくので現段階では決まってないです」

――東京ドームで深々と礼をしていましたが、そういう意味も?

中西「久々のドームだったんでね。若い時はお客さんとハイタッチとかしてなかったんだけど、最近はそういうのがあってもいいんちゃうと思ってきたし、もしかしてハイタッチがきっかけでプロレスを始めてくれる子もいるかもしれないし、40代そこそこはファンの人に塩対応だったんですが、最近はやってます」

――今年は東京オリンピックの年です。五輪代表として入ってきて苦しかったこともありましたか?

中西「要はレスリングもモノになったのは15から始めて、25か26かその位の年になってやっとわかってきたので。10年以上時間がかかって。プロになっても10年以上かかりましたよ。時間かかりましたけど、時間かけた分納得いくものができたので。そういう意味でレスリングもプロレスもできて、どういう質問やったっけ?」

――苦しいことありましたかって?

中西「錯覚していたんで。アマチュアでレスリングしていて。癖もついてるしそんな抜けへんし、もがき苦しんで。でもアマチュアレスリングの時、もっともがき苦しんでますから。もがき苦しみながら10年やって。そう思えば楽だったんですけど、10年もがき苦しみましたよね。見失った。でも10年たってみえてきて」

<中西学の略歴>


京都府京都市出身。身長186㎝ 体重120kg。宇治高校時代からレスリングを始め、1989年から全日本レスリング選手権を4連覇達成。専修大学卒業後、和歌山県庁勤務を経て、1991年4月に闘魂クラブに入団。1992年バルセロナオリンピックフリースタイル100kg級に出場した後、同年8月に新日本プロレスに入団。

1992年10月13日、藤波辰爾とのタッグでスコット・ノートン&スーパー・ストロング・マシン組相手にデビュー

1995年3月ヤングライオン杯で優勝。同年7月よりアメリカ遠征に。WCWでマサ斎藤の薫陶を受け「クロサワ」のリングネームで日本人ヒールとして活躍。スティング、ロード・ウォリアーズ、リック・スタイナー、リック・フレアーらと対戦。

1996年9月に凱旋帰国。97年に小島聡とのタッグでIWGPタッグを王座を獲得。

1999年のG1で公式リーグをトップ通過。準決勝で橋本真也を下し、決勝戦で武藤敬司からアルゼンチンバックブリーカーで勝利を収め初優勝。第三世代として初の栄冠を手にした。その後、永田裕志と共にIWGPタッグ王座に2度目の戴冠を果たすと同世代のテンコジと抗争に発展。幾度となくタイトルマッチで競い合った。

2001年からPRIDEとの抗争が始まると7月にゲーリー・グッドリッジと対戦。パンチをまともに浴びTKO負けするが、打撃技習得の過酷な練習を重ね2か月後にフロントスリーパーで勝利。リベンジを果たした。2002年10月の東京ドーム大会ではボブ・サップと対戦。野人vs野獣として大いに話題を集めた。

近年では余りにも多い量をバイキングで食べるモンスターモーニングのキャラクターも愛されながら第三世代の一人として試合を重ねてきた。

得意技はアルゼンチン・バックブリーカー、ヘラクレスカッター等


中西学の引退試合まで残り1ヶ月半ばかり。野人・中西がどんな引退ロードを歩むのか注目していきたい。

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