【訃報】ストロング小林さんが81歳で逝去 哀悼の意を込め新日本プロレスワールドで試合映像を無料公開

 元プロレスラーのストロング小林さん(すとろんぐ・こばやし、本名小林省三=こばやし・しょうぞう)が昨年末に東京都青梅市内の病院で死去していたことが6日分かった。81歳。東京都出身。

 ボディービルから国際プロレス入りし、1970~80年代にトップレスラーとして活躍した。74年のアントニオ猪木との日本人対決は当時の大きな話題を集めた。移籍した新日本プロレスでも闘った。

 引退後は「ストロング金剛」の芸名で、バラエティー番組などで活躍した。

哀悼の意を込めて、ストロング小林さんの試合を新日本プロレスワールド で“無料公開”すると発表された。

【ストロング小林の来歴】

国際プロレス時代

東京都青梅市で出生。中学時代に相撲部屋からスカウトが来たが断り、東京都立農林高等学校卒業後、国鉄に就職し、稲城長沼駅に勤務。父も国鉄に勤務していた。勤務の傍ら、プロレスラー力道山の逆三角形の肉体に憧れてボディビルに打ち込む。1966年10月、友人が出場したボディビル大会の会場で、国際プロレス社長・吉原功と出会い、その場で吉原とマティ鈴木にスカウトされ、団体旗揚げ間近の同年11月1日に入門。プロレスラー転向に関しては、家族からプロレスラーになるために国鉄を退職するのを反対され、最終的に親戚まで呼んで説得したという。ヒロ・マツダの付き人として全国巡業に同行。翌1967年7月27日、マスクマンの「覆面太郎」として大磯武を相手にデビュー。日本でデビューした覆面レスラー第1号となるが、1968年1月3日、TBSによる国際プロレスのテレビ放映開始と同時に素顔になった。

当時のブッカーだったグレート東郷が国際プロレスと決別して帰国する際、東郷からアメリカ行きを打診されたが、その誘いを断り、1968年10月にヨーロッパへの初の海外修行へ出発。その後、帰国と遠征を繰り返す中で実力を上げ、パリでのIWA世界タッグ王座奪取(1969年5月18日、豊登と組んでモンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフに勝利)、東京でのUSAヘビー級王座獲得(1969年10月14日、バディ・コルトから奪取)、アメリカ合衆国ミネソタ州ダルースでのIWA世界ヘビー級王座戴冠(1971年6月19日、前王者はビル・ミラー)、1972年の第4回IWAワールド・シリーズ優勝(決勝の相手はロシモフ)などの実績を築き、国際プロレスのエースに君臨する。当時の国際プロレスの提携団体だったAWAの総帥バーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座にも、1970年2月に大阪と東京で連続挑戦。1971年のアメリカ遠征においても、ミネアポリス、シカゴ、デンバー、ウィニペグ、ミルウォーキーなど各地で再三挑戦した。IWA世界ヘビー級王者として凱旋帰国する際も、ガニアからはアメリカに残るよう慰留されたという。

IWA世界ヘビー級王座は1971年6月の獲得からワフー・マクダニエルに敗れる1973年11月9日まで2年6か月間保持、ブラックジャック・ランザ、レッド・バスチェン、バロン・フォン・ラシク、ジェリー・ブラウン、ダスティ・ローデス、ダン・ミラー、カーティス・イヤウケア、ビル・ロビンソン、クラッシャー・リソワスキー、ホースト・ホフマン、マッドドッグ・バション、エドワード・カーペンティア、イワン・コロフ、ディック・マードック、前王者ミラー、そして同門のラッシャー木村などの強豪を挑戦者に、25回の防衛を記録している。この記録は、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座21回連続防衛を破る当時の日本人新記録であった(後に馬場がPWFヘビー級王座の38回連続防衛を達成し抜き返した)。

その間の1972年7月7日には、木村の返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座決定戦において、グレート草津との新コンビでミラー&バロン・シクルナを破り、同王座への2度目の戴冠を果たす。以後、シングルとタッグのIWA2冠王として、1973年4月18日にバション&コロフに敗れるまで、バディ・オースチン&ビル・ドロモ、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャーなどのチームを相手に6回の防衛戦を行った。

国際プロレスの象徴でもあった金網デスマッチには、1971年10月26日のダニー・リンチ戦で初挑戦(国際所属選手では木村とサンダー杉山に次いで3人目)。以降、IWA世界ヘビー級王座の防衛戦では1972年1月27日のイヤウケア戦、同年11月28日のクラッシャー戦、1973年1月16日のザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)戦、同年3月16日のバション戦の4試合は金網デスマッチで行われた。ノンタイトル戦でもオースチン、ドロモ、ベンジー・ラミレス、バスチェン、ターザン・タイラー、ラーズ・アンダーソン、ローデス、スカンドル・アクバ、マードック、ブラックジャック・マリガンなどと金網デスマッチで対戦した。

新日本プロレス時代

1973年11月30日にマクダニエルからIWA世界ヘビー級王座を奪還し、1974年1月14日と1月19日にカウボーイ・ビル・ワットを相手に2度の防衛に成功。団体の屋台骨として順調に活躍していた矢先、『’74パイオニア・シリーズ』最終戦当日である1974年2月1日に国際プロレスへ辞表を提出。同年2月13日、小林はフリー宣言してジャイアント馬場とアントニオ猪木への挑戦を表明し、IWA王座を返上して国際プロレスを退団した。この事件は小林の引き抜きを画策していた新日本プロレスが仕組んだシナリオであったと目されているが、離脱の背景にはマッチメーカーのグレート草津との確執があり、小林自身も「誰かの横槍で吉原社長に冷遇されるようになり、以前から離脱を考えていた」などと語っている。小林の国際プロレス退団直後に新日本プロレスはすぐさま動き、新間寿が小林との極秘交渉を開始した一方で、全日本プロレスも『月刊プロレス』編集長であった藤澤久雄に依頼して、新日本参戦を阻止するよう依頼した。これを受けて、同年3月8日には吉原社長が会見上で小林の契約違反を主張し、国際プロレスは小林に対し移籍金を要求するという事態に発展したが、東京スポーツ新聞社が仲介に入り、東京スポーツが1000万円を国際プロレスに支払うことで和解、一時的に小林は東京スポーツ所属のレスラーとなる。小林の国際プロレス退団後におけるTBS『TWWAプロレス中継』における小林出場試合の中継は問題なく同年2月16日・3月9日・3月16日にそれぞれ放送された。

同年3月19日、蔵前国技館において猪木とのシングルマッチが行われ、猪木の保持していたNWF世界ヘビー級王座に挑戦。日本人選手同士・団体エース同士のタイトルマッチとして、大きな話題を呼んだ(同門対決のタイトルマッチとしては、小林は1973年7月9日に大阪府立体育館においてラッシャー木村を相手にIWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行っている)。結果は猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れる。なおこのときのジャーマンは猪木がブリッジの際に首だけで二人分の体重を支え、猪木のレスラー人生の中で最も危険かつ美しい角度で決まったといわれている。試合当日は、新間同伴の上で会場入りしたという。その後、WWWFなどへの海外遠征を経て、同年12月12日に同じく蔵前国技館で再戦が行われたがまたもや敗退、1975年5月、新日本に正式入団した。

なお、WWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーにヒールとして活動し、1974年9月21日にフィラデルフィアにてブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦では、10月7日にキラー・コワルスキーと組んでアンドレ・ザ・ジャイアント&ビクター・リベラと対戦、11月18日にはペドロ・モラレスとのシングルマッチも組まれた。WWWF入りする前の1974年5月から7月にかけてはNWAフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)を短期間サーキットし、韓国人選手パク・ソンのタッグパートナーとして覆面レスラーの「コリアン・アサシン」に変身、覆面太郎以来となるマスクマンに扮した(マネージャーはゲーリー・ハート)。同時期、フロリダに遠征してきたジャイアント馬場とも邂逅しており、その際に全日本プロレス入りを打診されたという。しかし、前述の経緯から小林は東京スポーツに恩義を感じており、新日本プロレスのリングに上がることにした。

新日入団後は坂口征二とタッグを組み、1976年2月5日にNWA北米タッグ王座を獲得。以後3年2か月に渡り、モラレス&リベラ、コロフ&スーパースター・ビリー・グラハム、パット・パターソン&ラリー・ヘニング、スタン・ハンセン&ザ・ハングマン、ブルート・バーナード&キラー・カール・クラップ、ピーター・メイビア&ヘイスタック・カルホーン、ボブ・ループ&クルト・フォン・ヘスなどの強豪チームを相手に防衛。タイガー・ジェット・シン&上田馬之助とも同王座を巡り抗争を繰り広げ、新日本プロレスにおいて猪木と坂口に次ぐ主力レスラーとして人気を博した。当時のキャッチフレーズは「怒濤の怪力」。しかし、腰痛の悪化もあって1979年には坂口のパートナーの座を長州力に譲るなど、徐々にトップグループから退いていった。なお、1978年以降の新日本と国際の対抗戦に際しては新日本の一員として国際勢と戦っており、1979年8月26日のプロレス夢のオールスター戦では、当時の国際のエース・ラッシャー木村との久々の対戦が実現。1980年6月29日には、アニマル浜口が返上して空位となっていたIWA世界タッグ王座の新王者チーム決定戦に永源遙と組んで出場、ジプシー・ジョーら外国人選手の乱入でマイティ井上&寺西勇を下し8年ぶりに同王座に返り咲いたが、半月後の7月15日に井上&浜口に奪還された。

新日本プロレスでは役員にも就任するが、1981年10月16日の大分県立総合体育館での試合(星野勘太郎と組んでのアブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレン戦)を最後に、腰痛を理由に長期欠場し、レスラー活動はセミリタイア状態となる。同時に俳優・タレントとしての活動を始め、1982年に映画『伊賀忍法帖』に出演した際、役名が「金剛坊」であったことから「ストロング金剛」に改名し、スキンヘッドとなる。以降、試合に出場することはなかったが、同年9月21日、大阪府立体育館における猪木vs木村の髪切りデスマッチにおいて観客席から国際軍団に加勢し、場外乱闘の際にセコンドの浜口にハサミを渡して観客のヒートを買った。その後も復帰が期待されたものの、参戦は果たされぬまま1984年8月26日、福生大会にて引退興行が行なわれ、正式に引退した。

引退後

引退後は芸能界に転身し、『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』や『超電子バイオマン』で怪人役を演じるなどした。愛嬌のあるキャラクターでお茶の間、子供に親しまれる。スキンヘッドの怪人で「ストロング○○」という名を持つパロディキャラクターも多数誕生した。

国際プロレス社長であった吉原功が死去する直前に、小林は吉原の元へ見舞いに訪れ3時間会話した。その際、吉原から「私が育てたレスラーの中で小林が一番だった」と言われた際には、小林は感謝の気持ちで一杯だったという。

1992年3月1日、横浜アリーナにて開催された、新日本プロレス設立20周年記念大会の企画として、坂口征二とタッグを組みエキシビション・マッチに出場、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助と対戦した。なお、現役時代に使用したガウンやタイツ、リングシューズなどのコスチュームは、ファンや知人にプレゼントしてしまい残っていなかったため、作務衣をガウン代わりに、唯一手元に残っていたWWWFに遠征した際に着用した田子作タイツを着用し、裸足で試合に出場している。

バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で、沖縄の海岸で島崎俊郎と走っているときに落とし穴へ落とされるという企画で穴に落ちるが、2メートルの深さだったことから右足を悪くした。プロレス時代に腰痛とともに左足も悪くしており、これで小林は走ることができなくなったという。このときに制作会社との補償の仲介をすると俳優協会から持ちかけられたものの、「大ゴトになるからいいよ」と断っている。

1995年4月に母親が突然死したことをきっかけに、自分の自由な時間を大事にして健康で長生きしようと以降は芸能活動を縮小し、表舞台に姿を見せる機会は減っていった。

2003年に芸名をストロング金剛からストロング小林に戻した。芸能活動を縮小後も、首と脚のトレーニングを毎日1時間行い、体重も100キロ以上を保っており、痛めた腰の影響で歩行に杖が必要である以外はいたって健康であった。

2021年11月6日のスポーツ報知の記事によると、芸能活動は26年前に引退しており、また芸能活動を引退後に脊髄損傷の重傷を負い、その影響から下半身麻痺になり、3年前の2018年から寝たきりの生活であることが明かされている。ストロング小林本人は取材を断っていたが、介護している親族より「プロレス界にストロング小林がいたっていうことを残してもらいたい」という希望で仲介役となり、インタビューを受けている。

2021年12月31日午前7時21分、膿肺のため、東京都青梅市内の病院で死去。81歳没。2021年夏頃から特別養護老人ホームに入居し生活していたが、同年11月に肺を患って入院。その後12月末に症状が悪化し、家族に見守られながら、息を引き取ったという。

得意技

外国人選手に力負けしないパワーファイターとして知られていた。バックブリーカー系の技を多用したため、後年は腰痛に悩まされるようになった。

ブレーンバスター(大きく抱え上げ、空中で溜めをつくってから後方に投げ捨てる。フィニッシュ・ムーブとして多用)
カナディアン・バックブリーカー
アトミック・ドロップ
ベアハッグ
ランニング・ボディ・プレス
シュミット式バックブリーカー
バックドロップ(ルー・テーズやアントニオ猪木のへそ投げ型と異なり、相手の左わきに頭を入れた後、右腕を腰に廻し、股間に左腕を入れ、持ち上げ、後方に投げる。他にドリー・ファンク・ジュニアが同じ投げ型をしているが、さほど相手の腰を上げないまま後方に落とすのに比して、小林はより急角度に持ち上げ落とす)

獲得タイトル

国際プロレス

USAヘビー級王座:1回
IWA世界ヘビー級王座:2回
IWA世界タッグ王座:3回(with 豊登→グレート草津→永源遙)
IWAワールド・シリーズ優勝:1回(第4回大会)

新日本プロレス

NWA北米タッグ王座:2回(with 坂口征二)
アジアタッグ王座(新日本プロレス版):1回(with 坂口征二)

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