アントニオ猪木会長との22年。元マネージャー、甘井もとゆきさんインタビュー(後編)「それぞれが心の中に『アントニオ猪木』を持ち、一歩踏み出すしかないですね」

 昨年10月に亡くなったアントニオ猪木さん。その猪木さんと20年以上の付き合いがあり、2017年から5年間マネージャーを務めたのが甘井もとゆきさんだった。

「最側近が語るアントニオ猪木会長」の後編です。(聞き手 茂田浩司)

「アントニオ猪木物語」を作りたかった

――ここ数年、猪木さんの著書が立て続けに発売されましたね。それも甘井さんのプロデュースですよね?

「会長の体調が悪くて、本を出すぐらいしか仕事が出来なかったというのが正直なところです。僕としては『アントニオ猪木物語』をちゃんとソフトとして作りたかったんですよ。秋田書店の『ヤングチャンピオン』で漫画連載をする話も進めていたんです。昔『プロレススーパースター列伝』がありましたけど、あの続きで、会長が政治家になってからイラクの人質救出とか、あの辺をちゃんとした漫画で描いてほしかったんです。ちょうどヤングチャンピオンでは『田中角栄物語』をやってたんでちょうどいいと思って。それがコンテンツとなれば、一つの大河ドラマになるじゃないですか。アニメ化とかドラマ化とか」

――後世に語り継がれるものになりますね。

「会長のお身体が弱っていましたから、ドラマは当然、別の方が演じて。志村けんさんが亡くなった後にフジテレビで『志村けんとドリフの大爆笑物語』をやったじゃないですか。あれを僕はやりたかったんです。会長の役を人気俳優が演じたり、それこそ新日本のレスラーが出てもいいじゃないですか」

――いいですね。話題になったと思います。

「そうすれば、レジェンドとして会長の価値もさらに高まるでしょうし」

猪木会長が持っていたプロレスラーとして大事な資質とは

――猪木さんと甘井さんといえば、天龍源一郎さんとのトークショーも印象的でした(2020年2月)。猪木さんは杖をついて壇上に上がり、椅子に座ると素早く甘井さんが杖を受け取って下がった。トークショーの最後は、猪木さんが杖なしで立ち上がるとサッと上着を脱ぎ、甘井さんが受け取り、猪木さんは天龍さんと一緒に「1、2、3、ダー」でイベントを締めた。

「会長は人を楽しませようとしますし、一緒にいる人をいつも楽しませることを考えているんですよ。あの時のトークショーの第一声が天龍さんのモノマネでしたから(笑)。まずお客さんも天龍さんも驚かせるという(笑)」

――天龍さんの滑舌の悪さを猪木さんが真似するというレアな場面でした(笑)。サービス精神旺盛で、ちゃんと「掴み」を考えてこられるのも感動しました。

「そうなんです。ちゃんと会長はネタを用意してて『もし俺が前田山のところ(高砂部屋)に行っていたら、天龍と同期だったよね』みたいな話をするんですよ。相手のことを調べて、喜ばせようとするんですよ。これね、プロレスラーとして一番大事な資質だと思うんですよ。武藤さんなんかも話相手を喜ばせようとしたり、ある意味、エンターテイナーじゃないとダメなんですよ。格闘家で、プロレスが出来ない人はこれが理解出来ないんですよ。青木真也選手なんかはそこを理解して、入っていこうとしてて偉いなと思いますよ」

――猪木さんは「人に見られる存在」なのを意識して、トレーニングも欠かさなかったとか。

「僕にボソッと言ったのは『練習が好きなわけではないよ』。晩年はさすがに走れなかったですけど、それまでは地方に行くと走っていたんですよ。『甘ちゃんと夕方まで飲んでいたいけど、走らないとダメなんだよな』って、自分を奮い立たせて走りにいっていたし、パラオに行っても必ず1、2時間はジムでトレーニングしていたんですよ。だから、引退した後も体型が崩れなかったし、カッコよかったじゃないですか」


※パラオでの猪木さんと甘井さん(甘井さん提供)

――スーツがとても似合うカッコいい体型でした。

「会長のプロ意識は凄かったですし、体もしっかりしていたのに、人前ではTシャツを脱がなかったんですよ。『もう見せられる体じゃないから』と。だから、会長の理想はすごく高かったんだなと思いますよ」

 

難病「アミロイドーシス」を告白して、製薬会社からも感謝された。

――闘病についてお聞きします。2020年7月に難病「アミロイドーシス」だと告白されました。

「アミロイドーシスという病名が分かって、それを週刊新潮さんが書こうとしたんですよ。その時、僕は週刊新潮さんに『これは難病指定されている病気で、会長以外にも同じ病に苦しんでいる人もいるんだから、ちゃんとエビデンスを取って記事にしてください』と話したんです。そうしたらちゃんと記者を付けてくれて、大学病院を回って取材して記事にしてくれたんです。会長も『同じ病気で苦しんでる人の役に立つ記事なら協力する。俺のインタビューもいいよ』と。だから、記事が出たら、アミロイドーシスの薬を作ってる会社からお礼の電話が来ましたからね。『世間では病名も知られてなくて、猪木会長が話したことで広まって、新潮もちゃんと調べて記事にしてくれたので患者にとっても救いになります』と。その会社からは『メッセージビデオをください』とお願いされて出しましたし、元気になったらパーティーにも出てくださいと言われていました」

――猪木さんによって「アミロイドーシス」という難病の存在が世間に広まりましたね。

「会長は何をしたら相手が喜ぶかを見抜くのも上手いし『結局、会長の判断が正しかった』となるんですよ。昔、ヒクソンに高田延彦さんが負けた時の『一番弱いヤツが出た』も、あれでプロレスを守ったんですよね。言われた高田さんもその時は会長を恨んだかもしれないけど、後になって正しかったと分かるじゃないですか」

――そうですね。甘井さんの思いとして、最後まで猪木さんのマネージャーを務めたかったという思いはありましたか?

「それは思ってますけど、会長が決められたことですからしょうがないですね。まあ会長は(IGFとの関係を)綺麗にしたかったんですよね。それは会長が決めたことなので、僕がああだこうだいうことでもないですし。最後に『会長、それはダメです』『それなら辞めてくれていいよ』って言い合いをしてしまって。でもすぐに辞めるわけにもいかないので7月一杯で辞めて、8月1日から新しい事務所でとなったんです。激動の5年間でしたね……」

――大変でしたね。

「ただ、会長は亡くなる前に、会いたかった人には会えたと思いますよ。イラクの人質解放の時の商社の方とか」

――私がインタビューした際に『会いたいんだけどね』とおっしゃっていたので、その後で再会されたと聞いて安堵しました。

「ズッコさんと入籍された時、会長はズッコさんが(病気を患い)そんなに長くないことを分かってたんですよ。それで『ズッコに報いてあげるにはあれしかなかった』と入籍したんだと思いますけど、そこは会長、カッコいいと思いますよ。やっぱりズッコさんが何を一番欲しがっていたかを分かっていて、一番必要なことを与えてあげるのが会長なので。そういう意味では神様みたいな人ですよ」

――猪木さんの赤いストールやファッションは、田鶴子夫人プロデュースだったそうですね。

「そうですね。ズッコさんは仲のいいヘアメイクやスタイリストとよく一緒にいて、そのスタイリストさんには『甘井さんは青いネクタイをしなさい。会長の赤が引き立つように。そういうところにも気を配らないとダメよ』と言われたんですよ。会長の赤いストールも、それまで赤とは決まってなくて、青だったり緑だったりの時代があったんですよ。そういうところを芸能界的に『色を統一して』ってしたのがズッコさんですよ。当時、猪木事務所にいた人間によると『会長はズッコさんと付き合うまではジャージ姿だったり結構ラフな服装だったんです。だけど、ズッコさんと付き合い出してからピシッとスーツを着て、赤いストールを巻いてカッコよくなったんですよ』と言ってましたよ」

――女性目線のアドバイスで猪木さんは変わったんですね。猪木さんのスーツと赤いストールで華やかでよく似合っていました。また、田鶴子夫人は猪木さんの健康管理を徹底されていたそうですね。

「そうですね。会長が飲む薬の管理もすべてズッコさんがされていたので、秘書の岩橋さんはずっとズッコさんに付いていたので(受け継いで)出来ましたけど」

――岩橋さんは甘井さんと一緒に辞められたんですか?

「そうですね。僕も岩橋さんも、ズッコさんのコネクションで入っているから『IGFに移れ』と言われても『それだけは出来ません』と」

 

猪木会長が忘れられることはない。

――そうだったんですね。

「会長が亡くなって、誰かが『猪木さんはこういう考えだった』と言っても、誰も外れていると僕は思いますよ。会長は、相手が誰かで出てくる言葉も違いましたから。一瞬、一瞬のひらめきで生きているような方だから『会長だったらこう思うはずだ』と僕が言っても、それは違うんですよね。会長じゃないと答えは分からないし。それぞれがみんな心の中にアントニオ猪木を持っていると思うんで、それと一緒に生きていくしかないですよね。でも、まあ『忘れられることが二度目の死』なら、会長にそれはないと思いますよ。これだけいろんな人に影響を与えた人っていないと思うので」

――そうですね。プロレス・格闘技界を作った方だから、プロレスと格闘技が無くならない限り、忘れられることはないと思います。

「そうですよね」

――甘井さんご自身は今後、やっていきたいことは?

「ちょっとまだ発表は出来ないですけど、今、女子プロレス団体を立ち上げる話をしています」

――えー、そうなんですか。

「春先ぐらいには形になると良いですね。そうそう、天田ヒロミ選手が今度ブレイキングダウンに出ますよ(笑)」

――甘井さんが現在、マネジメントしている選手は?

「天田ヒロミ、鈴木悟、ノブハヤシですね。チャクリキジャパンとしては5月7日に新宿フェイスで『チャクリキ18~ファイティングスピリット・アゲイン』という興行をやります。会長が亡くなって、10月から興行が出来てなかったんですけど、ウチも団体なので何もしないわけにいかないので。『猪木さんを引き継ぐもの』ではなくて、それぞれが猪木さんにいろんな影響を受けたと思うんです。選手にしても、関係者にしても、ファンにしても。それを心に持って、一歩踏み出して、何が出来るかですよね」

――そうですね。

「鈴木秀樹選手がいいことを言っててね。『猪木さんはこういう技を使え、こういう風にしろという指導は一切なかった。猪木さんが口を酸っぱくして言ってたのは“個性を磨け”でした』と。そっちが大事なんだ、というのが会長の教えなんですよ。だから、会長は延髄斬りをしたり、卍固めをする選手には一切、興味がなかったじゃないですか。会長はその辺に言及していないと思いますよ。自分のコピーをする選手には何の興味もなかったんですよ」

――猪木さんが気にした選手といえば大仁田厚さんですよね。

「大仁田厚さんをなんで気にしたのかといえば、あの時、会長によく言われたのが『全員、大仁田に喰われちゃうよ』と。要は『大仁田は泥水すすってるんだから、ああいう人間はしぶといよ。サラリーマンやってる新日本のレスラーは誰一人勝てない』。だから『アイツは大変だよ。あんなの抱えたら』って。それほど意識していたから、小川直也対橋本真也(1・4事変。1999年)があったんですよね」

――そうでしたね。大仁田さんにとっては「あの猪木さんがそこまで意識してた」というのは最高の評価ですね。

「大仁田さんは今でも新宿フェイスをぐちゃぐちゃにして、出禁になるぐらい水を撒きますしね(苦笑)。僕もこの前、ウチの姫路大会に大仁田さんに来て貰って『この会場は絶対に水を撒いたらダメですよ』と言ったら、思いっきり水を撒かれて会場側にすごい怒られました(苦笑)」

――その発想はまさに猪木さんですね(笑)。

「会長に『これは言ったらダメです』と2回念を押すと、必ず言うんですよね(笑)。まあでも、この20年ぐらいですか、猪木会長と過ごした時間は大変なこともありましたけど、本当に楽しかったですよ。ただ、自分も新しい生き方をしないといけないですね」

――甘井さんの新たな一歩に注目していきたいと思います。今日は貴重なお話をありがとうございました。

(了)

 
▼インタビュー前編はこちら
アントニオ猪木会長との22年。元マネージャー、甘井もとゆきさんインタビュー(前編)
「猪木会長は偉大なレスラーであり『スターの才能』もある方。その会長に一番肉薄したのが武藤敬司さんだったと思う」
◆プロレスTODAY(LINEで友達追加)
友だち追加