【猪木さんお別れの会】藤波辰爾「あなたは私の永遠の師匠であり、不滅のヒーローです」
3月7日(火)東京・両国国技館にて昨年10月1日に死去した「アントニオ猪木 お別れの会」が行われ、発起人の方々、各団体選手、ファンが第1部の式典に参加した。
館内には猪木さんの写真や貴重な品々が展示され、多くのファンが写真に納める姿みられた。
式典会場内には遺影と共にリングが設置され、猪木さんのトレードマークの赤いマフラーをイメージした式壇中央に走る道が表現されていた。
坂口征二相談役が「只今より。故アントニオ猪木、猪木寛至、お別れの会を行います」と開会宣言をすると、猪木さんの入場テーマ「炎のファイター」が流れた。
©新日本プロレス
そして「追悼の10カウントゴング」が行われ、アントニオ猪木ヒストリーのVTRが映し出された。
その後にお別れの言葉を森喜朗さん(元内閣総理大臣)、藤波辰爾(ドラディション代表)、棚橋弘至(新日本プロレス)、古舘伊知郎さん(フリーアナウンサー)が述べた。
©新日本プロレス
その中で、一番弟子である藤波辰爾は「はじめて、あなたに会ったのは16歳です。私はいま、69歳になりました。気がつけば、53年の月日が流れました。田舎の少年が、ブラウン管に映し出されるあなたの勇姿に夢を見、憧れました。アントニオ猪木になりたくて、郷土の先輩、北沢さんを頼って入門して、その日から53年が経ちました。
いまも昨日のことのように思い出されます。あなたが日本プロレスから独立し、新日本プロレスを旗揚げした際、何一つ迷うことなく、あなたについていきました。私の決断は間違っていなかったと、心に確信しています。夜逃げ同然であなたのスーツケース、5~6個を持ち、できたばかりの新日本の事務所に駆け込んだ夜。猪木さん、あなたを筆頭にたった6名での旗揚げでしたね。あなたは山本小鉄さんや我々にもいたわり、まさに手作りの旗揚げでした。
アントニオ猪木になりたくて、本気でそう思いました。技も髪型も洋服も、すべてあなたの真似をしました。あなたに出会い、私の人生は大きく変わりました。
豊かになり、また共に練習をし、タッグを組み、時には戦いました。そのすべての瞬間が、私の人生の財産です、一人のレスラーとして、あなたに尽くしたくて、超えたくて、大きな背中を追い続けてきました。
1988年8月8日、横浜文化体育館でのあなたとのタイトルマッチは、私にとってかけがえのない思い出です。あなたにベルトを巻いてもらったことは、この上ない喜びでした。様々な困難にも共に立ち向かいました。
新日本プロレスの社長時代には、オーナーであるあなたと、選手と、ときには違う向き合いをしなくてはならないときがありました。あなたに背を向けたこともありました。でも、あなたを恨むことも、嫌いになることもできませんでした。
あなたが去ってから、心の寂しさはまだまだ癒えることはありません。きっと自分の親よりも長くすごしたあなたの存在を、脈々とこの先もずっと忘れることはないでしょう。
私はまだ、あなたから教えてもらった闘魂を胸に戦い続けています。魂をもう一度振るわせて、あなたの教えを後輩たちにつないでいきます。最後になりますが、あなたは私の永遠の師匠であり、不滅のヒーローです。あなたにとって、初めて許された急速のとき、ゆっくりと安らかにお休みください。でも、ときどき、リングに会いにきてください。僕はいつでも帰りを待ってます。かぎりない感謝を込めて。2023年3月7日、藤波辰爾」と自身の思いと共に感謝を述べた。