パンダとも対戦のシン・広田さくら、離婚を語る
waveの4・3新宿大会で、衝撃のアナウンスがあった。2児の母、旧姓・広田さくらが離婚を公表したのである。
この日の旧姓は、黒潮TOKYOジャパンとのシングルマッチ。イケメンの長い入場を逆手に取り、リング上で洗濯物を取り込み時間を有効に使ってみせた。子どもの服をジャケット代わりにされる誤算こそあったものの、時間の節約には成功し、よき主婦ぶりを遺憾なく発揮…と思いきや、その後、10・11新宿での自主興行開催発表とともに明かされた衝撃の事実…。
実は昨年後半からシングルマザーになっており、「仕事の大変さ」「仲間の大切さ」を子どもたちに教えるため自主興行の開催に踏み切ったという。そこにはもちろん、「養育費を稼がないと」というリアルな理由も。
「子育てにはお金がかかります。大学に行きたいとなれば1人1千万、2人で2千万! これから稼ぐぞ! だから業界のみなさん、オファーをください! そして自主興行のチケット、グッズを買ってください!」
これからは女手一つで2人の子どもを育てていく。「公表は自分の判断。相手は一般の方。離婚はしましたけど、よき父親ですので!」と広田。旧姓はもう使えないため、リングネームはシン・広田さくらに変更された。もちろん、ディアナのエリザベス王座を獲得している間は、シン・広田“エリザベス”さくらを名乗るだろう。
今回に限らず、人生そのものをプロレスに利用してきたのが広田である。過去の自主興行では「披露宴」「いい夫婦の日」「出産」などをテーマに節目ごとに大会を開催してきた。「彼氏ができました」報告をした約1年後に結婚を発表、そのときの男性が1年前とは別人らしく、場内をざわつかせたこともあった。
そんな彼女がプロレスラーをめざしたのは、高校生のときにテレビで偶然見かけた女子プロレスだった。JWPのダイナマイト・関西がキューティー鈴木に見舞ったスプラッシュマウンテン。この大技を見てカッコいいと思うと同時に、「やられてみたい」とも感じたというのが、なんとも広田らしい。
その日からどうしたらプロレスラーになれるのか、情報収集に奔走した。書店、コンビニ、図書館、さらに電話帳でもプロレス関連のものを探しまくった。そして、プロレス週刊誌でGAEA JAPANという団体を知る。GAEAはその年(1995年)の4月に旗揚げしたばかり。その上、同年代と思われる女子選手が多数おり、誌面で紹介されていた。他団体と比較しても、GAEAの若手に割かれているページが多く見えた。
「ここに入れば私も取り上げられるチャンスがいっぱいあるんじゃないかなと思って、GAEAに入門しました。それが長与千種の団体であるということはあとで知るんですけどね。なんならオーディションのときも知らなくて、大柄で金髪の人ってくらいにしか思わなかったです(苦笑)」
広田は95年10月にGAEA入門。オーディションでは1人だけ即合格で、その後同期が4,5人になった。が、そこはさすがに長与の団体だ。広田が知ろうが知るまいが練習は厳しく、デビューにこぎ着けたのは2人だけ。しかも、すぐに広田のみになってしまったのである。
デビューする頃には「関西さんの技を受けたい」との思いはすでにどこかに吹き飛んでいた。とにかく練習についていき、毎日を生き抜くことで精いっぱい。96年8月12日、全日本女子プロレスの日本武道館で長与のパートナーに大抜擢という破格のデビューを飾ったものの、それがかえって重荷にもなった。正統派アイドルレスラーとして見られるのが、どうしようもなく苦痛だったのだ。
「もうイヤでイヤで。ピンクのコスチュームもホントにイヤでしたね。名前がさくらだからでしょうけど、ピンクなんて生まれてから一度も身につけたことなんてないし、アイドルみたいに謳われるのもイヤ。だからといってどうしたいとかも特になく、デビュー戦が大きく取り上げられるような実力がないことは自分が一番わかってるんですよ。まわりの妬みやひがみも感じつつ、認めさせるだけの努力もしてない。その状況を打破したいけど何もできない。ただただ尖ってましたね」
しかし、ある一瞬をきっかけにスタイルチェンジのヒントをつかんだ。ボンバー光とのシングルマッチで「重いなあ、クソ!」と口走ったところ、観客から笑い声が漏れた。笑わせるのではなく笑われたのだが、それ以後、先輩レスラーに楯突く構図ができあがる。さらにデビル雅美とのシングルを前に、長与から「デビルさんのガウンを(盗んで)着て出ろよ」「オマエは人がビックリすることをやれ」と言われた。恐る恐る実行してみると、リング上でデビルがそれをいじってくれた。観客からの反応にも快感をおぼえた。次の大会では、レフェリーのトミーから「今日は何やるの?」「お客さん期待してるよ」と声をかけられた。一度きりだと思っていたのだが、ここから「何かやらないと」との義務感が芽生えたのだ。それが自作によるコスプレに発展していくことに。
選手はもちろん時事ネタも取り入れた広田自作のコスプレとモノマネ。とんでもなく高い完成度を誇っているが、特に工作や裁縫が得意だったわけではないという。鋭い観察眼も、必要に迫られて養っていったらしい。
「生きるための術としてのコスプレでした。GAEAという戦場でいかにしてお客さんの期待に応えるか、話題を勝ち取るか。ホントにそれだけの気持ちでやってましたね」
考えてみれば、GAEAでは女子プロ界の大御所たちが闊歩し、里村明衣子を筆頭に先輩たちは驚異の新人と呼ばれている。後輩ができたと思ったらすぐにいなくなる。「戦場」というのは言い得て妙だ。
その一方で、コスプレにより確固たるポジションを得たのも事実だった。時には長与を配下に置くユニット結成も広田だからこそなせる業。プレッシャーに圧し潰されるという「ビッグマッチでの弱さ」さえ、ネタになる。
しかし、05年4月にGAEAは解散。長与は引退し、一期生が現役続行を表明するなかで広田はプロレスに別れを告げた。が、「引退」の言葉は使わず「卒業」と表現。復帰の可能性がゼロではないだけに「逃げ道を作った」わけだが、内心では事実上の引退との思いがあった。「引退」ならば、「どうせ戻ってくるんでしょ」と言われるだろう。だが、「二度と戻らないぞ」というのが本音だった。なぜならば…「当時の私は天狗になってました。なので、解散はいいきっかけだなと。私はプロレスに留まる存在じゃない。ここから身を引いて、芸能界とか華々しい場所に行く!」
その後、舞台女優やお笑いで活動していった広田。しかし、現実は厳しかった。
「天狗の鼻を見事に折られましたね。私がどれだけ小さな存在だったか思い知らされるわけです。GAEAの選手がどれだけ私を育てて引き立ててくれたのか。ここから3年間、何をしたいんだ、何をするべきなのか自問自答の時代に入るんです」
プロレスは見ないようにした。正確に言えば、意識しすぎて見れなかった。目に入ってしまうと、選手の活躍に嫉妬と後悔をおぼえた。「あえてプロレスを遠ざけて目を伏せてた感じですね」
そんな頃、かつて団体の垣根を超えて名(迷)勝負を展開したサソリが引退。その前に「(広田と)同じリングにもう一度立ちたい」という要求を受け、エキシビションマッチのリングに上がった。そのときも一度きりで復帰の意志は皆無だったのだが、いざ上がってみると「出た瞬間のお客さんの歓声と拍手、リング上の感覚とかで、やっぱりまたやりたいなとの気持ちにまんまとなりまして(笑)」
写真提供:プロレスリングwave
そして、各方面に連絡を入れ、09年12月のユニオンで復帰し、フリーとしてさまざまな団体に参戦。12年7月に結婚を発表したwaveが主戦場になった。19年にはwave所属選手となり、waveのトップと言えるレジーナ王座も獲得。コミカルスタイルの第一人者でありながら、実力者ぶりも見せつけた。すべてはGAEAでの修行の賜物である。キャリア28年目、唯一無二の個性を発揮し続け順風満帆と思いきや、ここにきてまさかの離婚発表とは…。
「結婚して11年かあ。私の認識としては、私としてはですよ、結婚当初からすれ違いがあったんですよね。私の性格もあって、当初から不安や疑問が拭えないところがあったまま毎日を過ごしてきたんです。夫婦の子どもがほしいというのは共通してあったので、子どもができたらとか、家を建てたらよくなるんじゃないかというのはあったんですけど、私の疑問はずっと拭えず、でしたね。」
そして離婚を公表し、リングネームも変えた。心機一転、お母さんはシン・広田さくらとしてリングに上がる。
「名前の画数にすごく詳しいママ友がいるんですよ。彼女によると『シン・広田さくら』はあまりよくないと。なんでもいいからあとひとつ加えればすごくよくなるらしいんです。でも、〇ひとつ付けるとかしてもなあ…。まあ、字画は私の力でなんとかねじ伏せるよ!となって、そのまま『シン・広田さくら』でいこうとなりました」
写真提供:プロレスリングwave
写真提供:プロレスリングwave
シン・広田さくらのシンは、シン・ゴジラをイメージさせるとともにシングルマザーのシンでもある。強いお母さんは5・12札幌であのアンドレザ・ジャイアントパンダと対戦、ある意味怪獣対決で、大きな話題となった。
waveでは現在、シングルリーグ戦「Catch the WAVE」が開催中。10月の自主興行に向けて、シン・広田さくらはいろんな意味で波風を立てていく。
インタビュアー:新井宏