デスマッチの教祖・大仁田厚と互角以上に渡り合った漢ミスター・ポーゴの邪道人生

【柴田惣一のプロレス現在過去未来】


<写真提供:柴田惣一>

邪道・大仁田厚の宿敵と言えば、誰を思い浮かべるだろうか。ターザン後藤、松永光弘、青柳政司など多くの選手とデスマッチで名勝負を残しており「一人には絞り込めない」という人が多いだろうが、初代ミスター・ポーゴを忘れるわけにはいかない。

あの大仁田にも決して負けない漢ぶりだった。命知らずの壮絶ファイト。凶器をまるで自身の手足のごとく操り、爆破を、電流を、火炎を、恐れなかった。

6月23日は2017年に亡くなったポーゴの命日。享年66だった。


<写真提供:柴田惣一>

大相撲から新日本プロレス入りしている。1972年3月、藤波辰巳(現・辰爾)を相手にデビューしたがほどなく退団。渡米し米国各地で暴れまわり、国際プロレスに凱旋。その後も日本やアメリカ、プエルトリコなどで活躍した。

「ミスター・トーゴ」を名乗ったつもりだったが「TOGO」が「POGO」と間違えられ「ミスター・ポーゴ」が定着。気に入っていた。

1990年に大仁田が設立したFMWや、W★INGなどで過酷なデスマッチを実践。ペイントを施した迫力ある形相で、炎を噴射し鎖鎌やチェーンを自在に使用。観客を恐怖のどん底に突き落とすファイトで人気を集めた。


<写真提供:柴田惣一>

2003年には群馬・伊勢崎市議会議員選挙に立候補も落選している。リング上のファイトからは想像しにくいが、父は群馬県議会議長を務め地元に胸像もある名士で、お坊ちゃま育ちだった。

実際に普段の語り口はおっとりとしていた。関川哲夫(本名)は優しい人だった。新日本入りの際にも、友人だったグラン浜田に付き添いを頼んでおり、浜田とともに旗揚げ間もない新日本に入門を許されている。

浜田はその後も、新日本の一員として日本とメキシコの両国マットの架け橋となったが、ポーゴは退団を余儀なくされてしまった。

新日本入門のころには、浜田はもちろん藤波とも新団体の若手選手として親交が厚かった。ところが、ポーゴの悪党ファイトが過熱するにつれ、藤波との距離が開いてしまった。専門チャンネルのインタビューで「辰っつあん(藤波)の立場もわかるけど正直、寂しかった」と口にした時の悲し気な顔が忘れられない。


<写真提供:柴田惣一>

浜田も体調を崩し、メキシコで療養生活を送っているという。月日の流れは誰にも止められない。

伊勢崎市を暗黒街にする計画を立て、時の市長に直に迫るなど、大仁田も顔負けの突拍子もない行動もお手のものだった。

ミスター・ポーゴの名前とデスマッチ魂は二代目に受け継がれている。あのギャップの激しい人柄が懐かしい。(文中敬称略)

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