【編集長コラム】「夢の対決」
団体間の交流が盛んになっている現在と違って、対抗戦など夢のまた夢という時代があった。1970年、80年代にドリーム対決と騒がれた「ジャンボ鶴田VS藤波辰巳(当時)」は結局、夢のままで終わっている。
全日本プロレスと新日本プロレスの2強団体時代、馬場VS猪木、鶴田VS藤波は究極のドリームカードといわれ、仮想対決のゴングが何度も鳴らされた。
「ジャンボの完勝に決まっている。スタミナと大きさ、強さはジャンボが圧倒的」と主張する者。対して「藤波のテクニックに鶴田はついていけない。返し技にも弱い。藤波の粘り勝ち」と言い切る者。互いに譲らない。ちなみにジャンボ鶴田さんのことを、全日派はジャンボ、新日派は鶴田と呼ぶことが多かった。
ジャンボ派は「ジャンピングニーからの豪快なバックドロップで鶴田の勝ち」。藤波派は「受けのうまい藤波は切り返して、ドラゴンスクリュー。場外に逃げた鶴田にドラゴンロケット。そんな技を食ったことのない鶴田はぼう然としたまま、場外リングアウト負け」などと、シュミレーションしたものだ。
場外カウントは、全日本プロレスは10。新日本プロレスは20。「どちらのルールを採用するかが勝敗を分ける」などと、論争はいつまでも続いた。王道VSストロングスタイルの番外戦は激しかった。
当時は、口コミの時代。鶴田さんが藤波の学歴を持ち出したことで、新日ファンの怒りは頂点に達した。
鶴田さんは、年下だがレスラーとして先輩の藤波を称えて「藤波君は若いうちからプロレスの世界に入って海外武者修行も長く、いろいろとキャリアを積んでいる」と、言いたかったのだろうが、怒った新日ファンは「全日は練習していない。道場のマットは埃をかぶっている」と反撃した。
以来この話は都市伝説となった。ネットもない時代に、口コミの恐ろしさをまざまざと感じた。
エスカレートした抗争。時には、第三勢力・国際プロレスの会場で学生ファン同士が、つかみ合いの乱闘騒ぎになった。当時の国プロ代表・吉原功さんが「全日と新日の話でしょ。うちは関係ないんだから、よそでやってよ~。しかも小中学生無料招待で入場料も払ってないのにケンカまでされちゃあ」とボヤいていた。
そこまで熱くなったのは、馬場VS猪木は、団体の看板同士で実現が難しい。「鶴田VS藤波は、ひょっとしたら」という淡い期待があったからかも知れない。
だが、夢対決は永遠のドリームとなった。「実現しなくて良かった。夢は夢のままの方がいい」という人も多い。しかし、団体間の壁が薄くなった今こそ「やっぱり見たかった」との思いが、消えない。