【ジャイアント馬場さんの思いで】 “過激な仕掛け人”新間寿インタビュー「すべては猪木さんが馬場さんを超えるため。私はプロレスに命懸けだった!」

【ジャイアント馬場さんの思いで】

 “過激な仕掛け人”新間寿インタビュー

「すべては猪木さんが馬場さんを超えるため。私はプロレスに命懸けだった!」

 

ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~ アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~

2月19日(火)両国国技館

 

――新間さんと馬場さんの出会いから聞かせてください。

「私は1958年にポンジー化粧品という会社に就職し、福岡支店に出張勤務となった。それ以前から私は東京・人形町の力道山道場でトレーニングをしていたので、何人かのレスラーを知っていたんだ。それで、1962年のある日、小倉の三萩野市体育館で日本プロレスがおこなった興行に豊登さんを訪ねていったんだよね。そこでレスラーたちに石鹸を配って回ったんだが、控室の中に何人かのレスラーがいるのが見えて、その中に一際大きい人がいた。それが新人時代の馬場さんだったんだよね。そのとき、私は豊登さんから力道山門下生の2人の若手選手を紹介されたのだが、馬場さんではなく、なぜか猪木さんだけだった。それが猪木さんと私との出会いでもあったんだけれども、同時に馬場さんとの出会いでもあった。豊さんから呼ばれて出てきたのが猪木さん。“コイツはブラジルから来てまだ日本語がうまく話せないんだけど、言うことはわかるから紹介しておくぞ。これは将来、絶対にすごいレスラーになるからな”と言われたんだよね」

 

――なぜそのとき馬場さんは紹介されなかったのでしょうか。

「あとになって、どうしてかなと思って豊さんに聞いてみたんだよ。そしたら“馬場はタッパもあるし将来、放っておいても絶対にスターになる。それ以上にオレが一番期待しているのはこの男、猪木寛至なんだ”と。そう言われたんだよね。“東京に帰ったときにでも食事にでも呼んだり、多少小遣いをやるような人を紹介してやってくれよ”と。そういう話だったんだよね」

 

――要は、猪木さんを応援してやってくれということだったのでしょうか。

「そうだと思うね。“猪木という男は自分の努力によって世界チャンピオンになっていくだろう”と、そういうふうにも言われたね」

――では、当時控室にいた様子を見た新間さんの目に馬場さんはどう映ったのでしょうか。

「大きい人だなあ!と思った。それで私が東京に戻ってきてから化粧品セールスの所長を三鷹でやっていたときに、立川に当時大きくて有名な化粧品屋があって、そこで毎年化粧品祭りというのを3日間やっていたんだ。そのときにそこの社長から、“プロレスに詳しいならレスラーを連れてきてくれ”と言われたんだよね。サイン会をやってくれとのことだった」

 

――化粧品の販売促進のために、ですか。

「そう。そのとき外国人レスラーではザ・デストロイヤー、ドン・マノキャン、スウィート・ダディ・シキがいたかな。日本人では馬場さんもいたし、吉村道明さんをはじめ何名かのレスラーをそのイベントに連れていったんですよ」

 

――化粧品のイベントでプロレスラーというのは意外です。

「うん、化粧品だけどプロレス。当時、プロレスは老若男女、ファンが多かったんだよね。だからデストロイヤーが参加するとかなったら人がたくさん来てすごかったんだよ。外国人と日本人、2回にわけて連れていったのかな。イベント後には、ギャラを払ってお土産を持たせて帰ったんだよね」

 

――イベントで、馬場さんと話をしましたか。

「話をしたというか、“なにが入ってるのかなあ”ってお土産の袋をのぞいていた姿を見たよね。“いろんなの入ってるなあ、男性ものばかりじゃなくて女性のものもほしいんだけど”とか言ってたかな。でもすぐに“あ、女性のものも入ってるわ”と、そんなこと言ってたおぼえがあるよね。でも、当時はそんなに話したことはない。移動もあのときは電車だったんだけど、そんなに話はできなかったよね」

 

――その後、新間さんは本格的にプロレス界に入りますが、プロレスラー馬場さんを意識するようになったのは?

「プロレス界入りする前から意識はしていましたよ。リキパレスに馬場さんの試合を見にいったりもした。シリーズ初日、テレビ撮りのときに見にいったよね。その頃、馬場vs猪木も見たよ。確か30分1本勝負かなんかで、馬場さんが首固めしながらヒザの上に落とすネックブリーカードロップで猪木さんがギブアップして馬場さんが勝ったのをおぼえてる」

 

――馬場vs猪木のシングルマッチを生で見ていたわけですね。

「そう、見てた。馬場さんと猪木さんは、デビュー当時からして対照的だった。そこで猪木さんはすでに馬場さんへの対抗心を燃やしていたんだよね」

 

――やがて、新間さんは猪木さんと組み、営業本部長として新日本プロレスをプロデュースしていくことになりますが。

「私が新日本に入ったときには、まだテレビがついていなかったわけ。一年間でアッという間に1億の借金ですよ。私はその年(1972年)の9月から正式な社員になったんだけど、その前から興行の手伝いをして金作りをやっていたんですよ。でも不入りだった。そんな不入りのシリーズやってたら、金なんかいくらあったって足りないじゃない。それまでの収入といったら興行だけじゃないですか。赤字、赤字、赤字で、それでも続けないといけない。毎月の金作りでどれだけ苦労したか。そんなときに、翌年(1973年)4月に坂口さんがテレビ朝日、当時のNETテレビを連れてきてくれてテレビ放送が始まった。ただ実際に視聴率が上がりはじめたのは猪木vsストロング小林からですよ。とはいえ、坂口さんがテレビを連れてきてくれたから少しずつ返済できるようになった。そこから東京プロレス時代に呼んだジョニー・パワーズとつながっているというので、NWFの世界タイトルをやろうじゃないかとなり、タイトルマッチを始めた。それはもう世界タイトルマッチと銘打ってるからお客さんが入るわけよ。それをやってるうちに、次はNWAに入ろうという話になった」

 

――当時、世界最大のプロレス組織と言われていたNWA、ナショナル・レスリング・アライアンスですね。

「そう。マイク・ラベールがNWAとともに(WWWFの)ビンス・マクマホン(シニア)を紹介してくれるとなって、NWA総会に入会の申し込みに行ったときビンスとの話し合いから多少ではあるけれども(WWWF、WWF、現WWEから)選手が回ってくるようになった。ただ、NWA入会というのは2年間、却下されてきたんですよ。それで3年目に新日本が内容証明書とともにこれは独占禁止法違反ですよと話しをしたら、そこからようやく入会が認められた。ただ、入会させてくれたのはいいけれどNWA総会に行っても誰ひとりとして新日本には寄ってこないよ。フリッツ・フォン・エリックによろしく頼むと言っても、軽く“ニュージャパン? OK”と言って終わり。ドリー・ファンクのところとかでもそう。なのに、ひとたび馬場さんが姿を見せると、アッという間にみんな馬場さんのところに行くのよ。もう、我々なんて無視ですよ」

 

――そこで馬場さんの偉大さを目の当たりにしたわけですね。

「そうだよ。新日本はキチッと手続きをして入会を認められたんだ。ただ、それには条件があった。世界タイトルマッチという言葉は絶対に使うなと。それで、ウチが黙ってNWF世界タイトルマッチをやっていたらそれがやり玉に挙げられたこともあった」

 

――それでNWF世界ヘビー級王座ではなく、NWFヘビー級王座になったのですね。

「そう。ウチは世界を名乗れず、馬場さんの方は世界を名乗った。NWAに入会したにもかかわらずね。しかも世界タイトルを名乗ったことで制裁をかけられた。“当分、NWAの世界チャンピオンはニュージャパンには派遣しない”と。要するに、馬場さんサイドの言うことはなんでも聞くけれども、ニュージャパンの言うことは、何も通らない。だから、同じことをしていたら、馬場さんを超えることは出来ないと思ったんだね。だからなんとかしないといけないと思った。私の人生はすべてプロレスだったわけです。私の人生は6メートル40(センチ)のリングの中にある。この聖域で闘っている人たちが、よかれと思ってくれることを私はしようと決めていた。ただ、新日本プロレスには猪木さん、坂口さんがいたけれども、両方を売ることはできない。ひとりスターを作れば、そのスターでもってこの団体は潤うとオレは感じていた。坂口さんが来てくれた頃、坂口さんは“私は猪木さんの下でやりますから”と言ってくれたんです。それで私は猪木さんを売ろうと思ったんだよね」

 

――猪木さんひとりをプッシュする後押しになったと。

「そう。馬場さん超えをするためには猪木さんだと。アントニオ猪木でいこうと。その決心が坂口さんのアドバイス、助言によってついたんだよね。それに、こういうこともあった。1974年に“マジソン・スクェア・ガーデン・シリーズ”というのを馬場さんのところ、全日本プロレスでやったのよ。冗談じゃないと。ウチはWWWFのマクマホン(シニア)とつながってるんだ。それでマクマホンに頼んでMSGの名称はウチ(新日本)のほうでぜひ頼むと言って、1978年から“MSGシリーズ”を開催し、WWFのビンスが優勝トロフィーを持ってきたんだ。MSGは馬場さんのところじゃない、新日本プロレスだと」

 

――シリーズ名でも対抗心があったと。

「そう」

 

――新日本と全日本の企業戦争が激化していく中で1979年8月26日には日本武道館で「夢のオールスター戦」が開催されます。新日本、全日本、国際の3団体が集いましたが、ここで新間さんは馬場さんと話す機会があったのでしょうか。

「馬場さんは東スポ(東京スポーツ新聞社)にOKしたんだからいいよと。リングの中のことは私は入れないからね。そのとき撮ってもらった写真で、私が猪木さんと馬場さんの2人の間に座ってるものがあったけど、マッチメークについては猪木さんと馬場さん2人で決めたことだから。そしたらその後、坂口さんのところへ馬場さんから電話があって、“猪木は信用できない。合意したにもかかわらず前の日に急に変えてきた”と言ってきたんだよね。“もう決まっていてやらざるを得ないときに、そういうことを言ってくる自体が不見識だ。でも自分は渋々OKした”と。私はその意味がわからなかった。マッチメークということはリングの中での決めごとだと思うけれども、馬場さんと猪木さんで合意したことを猪木さんがひっくり返したんだなと思った。それがどういう内容かは知らないけれども。厳として慎むべきだということで、そういうところまで口を出してはいけないと思ってた。私の本分というのは、アントニオ猪木が馬場さん超えをすることを願ってるだけだからね。ただ、大会のときはウチの息子に頼んで1人2千円ずつやるから30人くらい集めろと言ったんだ」

 

――新日本、猪木さんの応援のために?

「そう。そしたら50人以上集まったと。当日は、“猪木と馬場がリングに上がったときにイノキコールをやれ”と言ってね。大会後、馬場さんが東スポの社長に“新間は息子に頼んで猪木コールをさせた”と話したら、社長は“アンタのとこだって営業部長いただろう。なんでそういうことしなかった? それは新間の勝ちだよ。それはアンタのところと猪木さんのところの営業の違いだよ”って。“それは猪木さんの声援はすごかったよと、自分も聞いたけど”ってね」

 

――それも馬場さんに負けたくない一心から、ですよね。

「当時猪木さんは馬場さんの上になかなかいくことはできない。だから何かしないといけないんだよ。“猪木と馬場の違いをオマエはわからないのか? 猪木は体つきや身長にしたって普通のレスラーと同じじゃないか”と、よく外国人レスラーからも言われていたからね」

 

――それだけに新間さんの仕掛けやアイデアに関しては、常に馬場さんの姿が背後にあったわけですか。

「うん、ありましたね」

 

――馬場さんを猪木さんが超えるために、新日本プロレスが超えるために?

「日本一の富士山がいつでも目の前にあるような気がしてた。この富士山を越えるにはどうしたらいいのか。日本第二の山は、南アルプスにある標高3193メートルの北岳だよ。そこに登ると必ず草鞋をおいてこなければいけないという言い伝えがある。なぜかというと北岳の神と富士山の神が論争をして、オレの方が高いと、お互いが言い合う。すると、もうひとりの神が出てきて大きな大きな竹竿で(高さを)はかったという。そしたら北岳の方が低かったとわかった。それで富士山が日本一の山となり、北岳の神がこの山に登ってくる人間は草鞋をおいていけとなった。草鞋が積もって富士山と同じ高さになる、超えるということなんだよね。その山が北岳だと。そびえ立つ富士山を超えたい。その山がジャイアント馬場であり、我々新日本プロレス軍団は北岳だったわけだ。なんとしてでも、馬場さんを超えよう、草鞋を積み重ねて富士山を越えようと。それで、一戦一戦アントニオ猪木が闘うことで、その草鞋を増やしていくと。そうすれば、いつかは北岳が富士山を追い越す高さになるだろう。それにはどうしたらいいかと考えたのが、異種格闘技戦であり、IWGPだった」

 

――全日本との企業戦争となると引き抜きが思い出されますが、IWGPの戦略の一環として引き抜きもあったわけですか。

「そう、あった。馬場さんを相手にした選手とアントニオ猪木が闘ったらどういう試合になるだろうかと考えたんだよね」

 

――直接闘うことはできないから?

「そう。それで猪木の方がいい試合になったと思われれば、ウチの勝ちだからね。スタン・ハンセンが引き抜かれたときも、いいじゃないかと。じゃあハンセンが馬場さん相手にどんな試合するかと。いい試合にならないよと思ったから」

 

――自信があったわけですね。

「あった。大木金太郎も向こうにいったときに、猪木vs大木以上に馬場vs大木が名勝負になるのかなと。猪木vsストロング小林なんてすごかったじゃない。私はあれがナンバーワンだと思っている。猪木が小林をあそこまで持ち上げたからいい試合になったんだから」

 

 

――引き抜きの最初はアブドーラ・ザ・ブッチャーの出現(1981年5月8日)でしたが。馬場さん側の報復も覚悟していたのですか。

「してた。馬場さんだったら絶対なにかやり返してくるなとね。でも、あの人だからまあジックリジックリくるだろうなと思ってたら、あんなに素早くくるとはね」

 

――2カ月後(7月3日)にタイガー・ジェット・シンを引き抜かれました。

「そうね(笑)」

 

――ヒールのトップですからね。

「そう。あのとき、引き抜かれるというのはこういう気持ちかと馬場さんの気持ちがわかったよ(笑)。その日のうちに私はシンが泊まってるホテルを突き止めて行ったもんね。トイレに誰かが隠れてたよ。誰かわからないけど」

 

――その後、スタン・ハンセンの引き抜き(12月13日)までエスカレートしましたからね。

「そうそう。でもハンセンは違約金をキチッと払っていった」

 

――あの時代には、タイガーマスクのデビューによるタイガーブームもありました。今振り返ってみてすごいと思うのは、タイガーマスクのデビューやIWGP構想、外国人選手の引き抜き戦争などが同時進行でおこなわれていたことです。

「うん、やってた。そうですよ」

 

――別の出来事のようなイメージもありますが、すべて同時進行で新間さんがおこなっていたんですよね。

「同時進行ですよ。だからプロレスに本当に命懸けだったよ」

 

――タイガーマスクのデビュー(1981年4月23日)から2週間後にブッチャーが現れました。

「そうだよ」

 

――引き抜き戦争の終結を申し入れたのも新間さんだったと思うのですが。

「そうそう。いや、もうお互いに日本人レスラーがプラスになるならばいいけれども、そうでなければやり合ってもしょうがないと。ブッチャーがウチにきたからというのは、要するにIWGPに参加するという宣言がほしかったからですよ」

 

――大物が来るという?

「そうそう。宣伝、ニュースとしてね。それに金がかかってもいいじゃないかと。宣伝費だと。でもエスカレートすることによってガイジンレスラーだけギャラアップされたり、プラスになるということは考えなきゃいかんなと」

 

――お互いの団体にとってよくないだろうと。

「そう。東スポの櫻井さんに相談したら(ゴング誌の)竹内宏介を呼んだ方がいいと。それで話をして、馬場さんのところに行ってくれた。そこから猪木さんと馬場さんで会談をした。オレは2人の話には加わらなかった。話が終わってから写真を一緒に撮っただけ。どうなりました?なんて聞けないじゃない(笑)」

 

――話し合いは猪木さんに託して?

「そう。そういう雰囲気じゃないもん」

 

――引き抜き戦争終結、1983年5月に第1回IWGPも実現させましたが、その後、クーデターから新間さんは11月に新日本を退社します。その後、馬場さんとの関係は?

「UWFの外国人選手について相談しに行って、私は(1984年)5月になれば新日本とビンスとの契約が切れるから、そうしたらアンドレ・ザ・ジャイアントでも誰でも御大の方に回せますよと言ったんですよ」

 

――全日本の方に?

「そうそう。“じゃあ新間君、最初からそう言ってくれたら自分は協力できる。UWFの最初の(シリーズの外国人)選手はオレが呼んでやる”となった。だから最初の選手たちは全部、馬場さん経由で呼んでくれたんだ」

 

――当時は明らかにされていませんでしたが、馬場さんが選んだ選手だったと。

「そうなんだよ。ダッチ・マンテルとかね。その頃、猪木さんは“オマエ(新間)が先に(UWFに)行け、オレも必ず行くから”と。でもそうはならなかった」

 

――UWFのとき、馬場さんと新間さんで話をしていたわけですね。

「してた」

 

――84年5月にUWFから離れた新間さんはプロレス界からも離れ、馬場さんはその後も現役として闘っていました。そして99年1月31日に亡くなったのですが。

「その一報を聞いたとき、エー!と思った。まさかと思った。つい最近まで元気だと思っていたからね。驚き以外の何物でもなかったよ。ただ、その直前に誰も会いに行けないような面会謝絶だということは聞いていた。面会謝絶というのは奥さんの元子さんが馬場さん専任で自分だけ付いていて、ほかの人には面会謝絶にしてるんだろうなと思ってた。いろんな人が面会にくる煩わしさを止めてるんだろうなと思った。だけれども馬場さんが亡くなったと。女房も一緒に数珠を持って袈裟を巻いていって。でも、お棺の中の寝顔も見なかった。それからその後は私が遺骨をどうしましょうかという相談を受けたり、“新間さん、これどうしたらいいんでしょうか?”と言うから、“奥さんはいつまでも馬場さんと一緒にいたいんでしょ”と言ったら、“そうだ”と言う。そういう思いがあるのなら馬場さんをいつまでも奥さんのそばに一緒にいるようにしてあげておいた方が馬場さんも幸せだし、奥さんも気が休まるでしょうと。だったらそうしなさいと。奥さんは、“ばちあたらないのかしら?”と言うから、ばちなんてあたるはずないでしょと。ある人の話だけれども、遺骨は入っていないけれども、墓を作ったと。それについて、ほかの人は笑うと。骨もなにも入ってないのになぜ墓を建てたんだと。その人を思う気持ちがその墓にこもっているのだったら、それはお墓として拝んで何ら不都合はない。自分が思っているのなら、その思いがその人に伝わる場所に置いておいていただきたいというのが私たち坊主の考え方ですよと伝えた。奥さんが“まだ置いておきたい”と言うのなら、それでいいと思いますと。奥さんは“新間さん、ありがとう”と。あとはあのとき、その日のうちに馬場さんを思って、私はある文書を書いた。お経の文句、日蓮聖人の言葉を入れてね(写真参照)」

 

――では、新間さんにとって馬場さんはレスラーとして、また人間としてどういう方でしたか。

「人間としてはすごい人だったね。素晴らしい人だった、うん。誠実さがあって。馬場さんにはよく言われたよ。“新間君、オレはアンタの発言でカーッとなりコノヤローと思ってベンチプレスを何回も何回もやったんだよ。そんな気力を引き出してくれた面も多少あるんだな。オレを一時期本当に燃えさせたのは新間寿だった”とね。私は猪木さんが馬場さんを超えるためにいろいろと考えた。が、その道を示してくれたのも、馬場さんだったんですよ」

(聞き手・新井宏)

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