【編集長コラム】「ラグビー人気から阿修羅・原さんの思い出」

年末、年始のテレビ特番で大活躍だったのが、2019年のラグビーワールドカップ日本大会で大躍進した日本代表のメンバーだった。

個性あふれる選手たちの素顔は、魅力いっぱい。ラグビー人気はますます盛り上がりそうだ。そこで思いだされるのが、2015年に亡くなった阿修羅・原さんの勇姿だ。

諫早農高→東洋大→近鉄とラグビーで大活躍し、日本代表にも選ばれた。明大ラグビー部出身のKENSOが「本当にあの人はすごかった」というほど、素晴らしい実績を残している原さんは、1977年にラグビーOBの故グレート草津さんが暴れていた国際プロレスに入団した。

翌78年にデビューしたが、リングネーム「阿修羅・原」は、作家の野坂昭如氏から命名されたもの。斬新なリングネームはインパクト大だったが、実は当の本人は当初あまり気に入っていなかった。

後年「本当は、本名の方が良かった。だけど、原進って『何だか政治家みたい、レスラーっぽくない』と言われた。阿修羅って聞いた時は、何それ? 大丈夫かと。でも、国際プロの吉原功代表に『偉い作家の先生が、考えてくれたんだから』って、説得されたんだ。しばらくは慣れなかったけど、今では納得している。一度聞いたら、覚えてもらえるからね」と、振り返っていた。

ただ、入場テーマ曲には「でも、あの『♪あ~しゅらぁぁぁ~♪』って、ちょっと照れちゃったよ」と苦笑いだった。

コメディー映画「ピンクパンサー」のクルーゾー警部に似ており、原さん自身は「『クルーゾー・原』が、いいんじゃないか」と、冗談交じりに語っていたものだ。

原さんは、藤波辰巳(現・辰爾)のファンイベント「ドラゴンフェスティバル」に、故・剛竜馬さんと参加したことがあった。「剛さんが藤波さんからジュニアのベルトを奪取したのを見て、すごくうらやましかった」と、悔しさを珍しく隠さなかった。

ジュニアからヘビー級転向後、ますます大暴れ。天龍源一郎との龍原砲、そして天龍同盟は、原さんの存在が不可欠だった。

1987年6月4日、名古屋で産声を上げた龍原砲。天龍と原さんが名古屋城をバックに2人でがっちりと握手を交わした時の高揚感を今でも思い出す。

結成当初、移動も宿舎も2人きり。全日本プロレス本隊や外国人軍団とも別だった。我々と同じ電車や車に乗り、移動中も試合終了後の反省会でも、プロレスについて熱く語り合ったものだ。

リング外で残念ながら様々なトラブルを起こしてしまった原さんだが、豪放磊落な性格にひかれた人も多い。記者も原さんとのご縁から、大切な人たちとの交流が始まっている。

阿修羅は闘争的な「戦闘神」。今でも、天国で「阿修羅」の元に猛ダッシュし、ラグビー仕込みの重心の低い走りを披露しているに違いない。

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