【阿部史典インタビュー】“やりすぎくらいがちょうどいい”イズムで2度目の参戦、ケンドー・カシンと予測不可能な一騎打ち!「読めないからこそ、逆に楽しみです!」ストロングスタイルプロレス12・17後楽園
阿部史典インタビュー ストロングスタイルプロレス12・17後楽園 “やりすぎくらいがちょうどいい”イズムで2度目の参戦、ケンドー・カシンと予測不可能な一騎打ち!
「読めないからこそ、逆に楽しみです!」
藤田和之vsスーパー・タイガーのレジェンド選手権試合、船木誠勝vsアレクサンダー大塚の初シングルマッチなど、注目カードが揃い踏みのストロングスタイルプロレス12・17後楽園ホール大会にあって、もっとも予想が難しいのが、ケンドー・カシンと阿部史典の初遭遇である。
僧侶の資格を持つ異色のレスラーは、澤宗紀さんの「やりすぎくらいがちょうどいい」イズムを受け継ぐ破天荒さが持ち味だ。
物怖じしない闘いぶりは、レジェンドが揃うこのリングにおいてある意味最大級の注目選手でもある。
果たして、阿部史典はどんな心構えで初代タイガーマスクのリングに上がり、カシンと対峙するつもりなのか。
12・17後楽園を前に、話を聞いた。(聞き手:新井宏)
<シングルマッチ30分1本勝負>
ケンドー・カシン(はぐれIGFインターナショナル)
vs
阿部史典 (プロレスリングBASARA)
――阿部選手は、とにかく異色な経歴の持ち主ですよね。
「確かにそうだなと思います」
――僧侶の資格を持っていると。
「はい。いまもときどき」
――お坊さんだった阿部選手が、なぜプロレスラーに。
「母親の弟、僕の叔父が僧侶なんです。つまり、母親がお寺の家系なんですよ。ボクはふつうの家の生まれで、小さい頃から(アメリカン)プロレスが好きになり、小学生くらいでスネークピットに入ったんですよ」
――小学生がスネークピットで練習を?
「そうなんですよ。小6くらいからですね。その頃にはすでにデビュー前の鈴木(秀樹)さんもいて。定アキラ選手もいましたね。ボクはそこにプロレスのリングがあるから練習に行ったんです。バズソーキックとかを教わりたかったんですよ。でも、UWFとかは別に知らなくて。その頃って、練習後にするプロレスごっこがすごく楽しかったんですね。
――スネークピットの練習の後にプロレスごっこをしていた?
「そうなんです。そっちの方がすごく楽しくかったんですよ。あと、練習中に出てくるスモールパッケージとか、プロレスで知ってる技がキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの練習で出てくると楽しくて。ボクはプロレスラーになりたかったんですけど、ガリガリで細かったので、これは無理だなとなって、中3、高1くらいでやめたんです。その後、ちょっとふざけたことが好きで正規の道とははずれた方に行ってしまい、18歳くらいの頃どうしようもなかったんですね。なので、母親の方から一回手に職を持てということを言われまして、それでお寺に行ったんです。まあ、一回くらい母親の言うことを聞いておくか、みたいな感じで、2、3年くらい京都に行ったんですよ。泊まり込みの練習生みたいなことしてました」
――僧侶の修行、ということですか。
「ええ、プロレスで言えば。育成機関みたいな感じで修行していたんです。2、3年くらいやっていたんですけど、最後の方にはほかの修行僧もやめてしまって、自分ひとりになったんですね。それでも、けっこうこなせるようになりました。と同時に、そういえば自分はプロレスラーになりたかったんだなと思うようになって。格闘技とかは好きだったので、細く長く練習は続けていたんです。そして夜に自由時間がほしいということを言いまして、僧侶の修行をしながら格闘技ジムに行かせてもらって、そちらの練習もしたんですね。畳の上でスクワットしたり、ソバットしたりもしていました。そんな頃、スネークピットに出稽古に来ていた澤(宗紀)さんに偶然会ったんです。そこからボクは澤さんが所属していたバトラーツや、参戦していたゼロワンとかにものすごく惹かれていきました。澤さんとはよく一緒に遊んでもらっていて、ある日、澤さんからから『プロレスやりたいの?』と聞かれたんです。そのとき『プロレス見に来なよ』と言われて、初めて日本のプロレスを(ライブで)見たんです。そしたらこの激しさはなんなんだろうと思って、ますます好きになっちゃったんですね。でもちょうどその頃、修行期間を終えて愛知県のお寺で働き始めたんですよ。そこにちょうど、バトラーツで一番最後にデビューしたタケシマ選手が名古屋にいたんです。デビューしてしばらくしたらバトラーツはなくなってしまったんですけど、そいつが名古屋のスポルティーバにいると言われて、ボクはスポルティーバってバトラーツなのかって勝手に勘違いしてしまったんですね(笑)。それでスポルティーバに入って(プロレス)デビューしたんです」
――なるほど。阿部選手の試合を見ていると、澤さんの試合ぶりを思い出すんですよね。
「いやあ、ボクはもう澤さんありきなので」
――「やりすぎくらいがちょうどいい」イズムを受け継いでいますよね。
「ハイ、そう言ってもらえるのはありがたいですね」
――本当にそこは伝わってきます。無意識のうちで出るものですか、それとも意識して澤イズムを表現している?
「中学くらいから好きだったので(自然に身についている)。とくに自分がやりたいプロレスというのがバチバチというものだったりというのもありますね。でも、世間で言われるバチバチよりか、バチバチってもっと深いものだったりしたんですよ。ボク、石川(雄規)さんのいるカナダに1ヶ月ほど練習しに行ったんですね」
――石川選手のいるカナダに練習に行った?
「ええ、カナダにも行きました。で、石川さんが酒飲みながら、『阿部なあ、バチバチっていうのはな、相手の向こう側にいる世間を殴ることだ』とか言ってるんですよ。なに言ってるか当時の自分にはサッパリわからなくて(笑)。いまも “まだ” 全然わからないんですけど、いまの時代に合ったいまの時代のものを、そういう気持ちを少しでも理解しようとしながら、自分なりに作るのが自分のやりたいことなのかな、という感覚で理解していますね」
――そのスタイルをベースにしながらプロレスを探求している感覚ですか。
「そうです、そうです。むかしのものをやってもたぶんおもしろくはないと思うので」
――阿部選手の試合を見ていると打撃のキレもいいし、コミカルなこともこなしますし、すごく幅が広いですよね。
「もともと愛知県(のローカル団体)から出てきているので、もらった仕事でいろんなことを見せたいと思うんですよね。その根本でバチバチを求めている。そこが大事で。あとはTバックはいたり、ふざけたことをしたりするのも自分の大切なプロレスなんですよ(笑)」
――なるほど。ところで、11・9神田明神ホールでストロングスタイルプロレスに初参戦しました。船木誠勝&伊藤崇文組vs鈴木秀樹&阿部史典組というカードでした。
「初参戦ですごい素敵なカードに入れていただいたなって。そもそも鈴木さんは小6くらいから知っていて、近所のよく遊んでくれるお兄ちゃんみたいな感覚でいたんです。そこからプロレス界に入って”バサラ”の後楽園メインでシングルしたこともありますし、
前回はタッグを組んだ。練習もいまでも見てもらいますし、不思議な縁がありますよね。しかもそのときの相手が船木さんですよね。いまを生きる歴史の標本と闘った感覚です。もちろん過去だけではなく現在進行形の歴史上の人物、リビングレジェンドと闘っている感じでした。リビングレジェンド。
まだまだ全然敵いませんでした。」
――タッグを組んでいた日高郁人選手の推薦でストロングスタイルプロレスのリングに上がったそうですが。
「そうです。日高さんもけっこうボクからしたらリビングレジェンドみたいな感覚なんです。それこそ澤さんと組んでて、そのパートナーがやめたら、それを見ていたボクが出てきてタッグを組むようになった。日高さんって、むかしと比べても顔も変わらず動きも変わらず、ボクと同じテンションで闘えるんですよ。日高さんってすごいんでしょうね。やめるよりも、続けることってすごいことじゃないですか。続けて、しかも変わらない日高さんって一番すごいと思う」
――なにげにキャリア長いですからね。
「そうですよね。キャリアにすがったことをしたがらないイメージもあるので、すごい尊敬しますね。でも、むかしは、めっちゃキライだったんですけどね(笑)」
――え、なぜ?
「バトラーツを見てるときはキライでした(笑)。要は、日高さんってバトラーツに染まらないような試合をしていたんですよ。たとえばロープに走ったりとか。こっちからしたら、早く殴って蹴れよ、みたいな」
――バチバチファイトしろよ、と?
「そうそう。わかりやすく言うとバチバチをやれよと。でも、バチバチの中で日高さんは異質だったんですよ。いま思うと、日高さんって全部できるし、あえてやっていなかったというのをいまになるとわかるんです」
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