【新日本 大張社長インタビュー】<第1弾>新社長の抱負、東京ドーム大会に向けての意気込みを語る!「実はレスラーになりたかった」「1.4&1.5は第一にお客様への感謝」「経営もストロングスタイルを体現する」

2020年10月23日に新日本プロレスの代表取締役社長に就任した大張高己(おおばり たかみ)氏にプロレスTODAYがロングインタビューを実施!全3編に渡って大張新社長の人間性に迫るインタビューをお届けする。

第1弾では大張社長がどの様なバックボーンを持って新日本プロレスの新社長となったのか、コロナ禍で大変だった2020年を乗り越えて開催の迫る1.4&1.5 WK15 in 東京ドーム大会に向けてどの様な意気込みをもっているのかについて伺った。

【新社長としての抱負】

--10月に就任されて2ヶ月ですね。

大張 高己社長(以下 大張社長) そうですね。普段、あまり表に出ないのですが、就任直後のインタビューですので、周りにも背中を押されてお受けしました(笑)よろしくお願いします。

--USでの仕事※から、今度は国内のトップという形になられたと思いますが、使命感みたいなものとか、そういった意識の違いはありますか。

※大張社長は新日本プロレスのアメリカ法人、New Japan Pro-Wrestling of America Inc. のCEOに2019年11月から国内の新日本プロレスの経営企画部長と兼任で就任していた。

大張社長 表に顔が出るのはアメリカの社長としてだったんですが、本来、新日本の経営企画部長なのであちらを兼務という位置づけで、仕事の割合としてはこっちの方がはるかにビジネスボリュームも大きいんです。アメリカのイメージが強いのは、一方の新日本の経営企画部長である私が具体的に何を動かしてきたかを、リアルタイムでファンの皆様へご報告してこなかったためですね。アメリカでは、新日本元社長の手塚※にCOOをやってもらって、日々コミュニケーションを取り、重要な意思決定や方針を手塚と決めて、大会が向こうであるとデジタル広告等で日本から援護射撃し、開催時に選手と共に渡米するという形だったので、元からその新日本本体、戦略地域としてのアメリカ含めた全体の経営課題にアタックしてきたんです。私が社長になったから、突然経営課題が変わることはなく、アメリカから日本へという軸足の移動や意識の違いというのはありませんね。

※手塚 要: 元新日本プロレス社長。Bushiroad USA Inc.のCEOでもある。

--その路線をそのまま継承してるってことですね。

大張社長 海外大会だけでなく、より実務的な、アプリを開発して育てたり、海外ECを立ち上げてグローバルに購入機会を増やしたり、テレビ等の露出機会を生み出したり、といった新たな営みを中心に、(コロナ禍に)なる前もなった後も経営課題として大事な事項はそのままなので、注力し続けていますから。大きく仕事の内容や大事なポイントが変わったわけではないです。もちろん会社の経営を預かるので、視野も広く立場も変わりましたからその点は違いますけど、だから、鼻息いきなり荒く、人格が変わるってのはないですよ。

--プレッシャーみたいなものとか、意思決定の最終決定権者っていうところでの、戸惑いみたいなものっていうのは特にそんなには感じてないという事でしょうか?

大張社長 プレッシャーというよりも、別のメディアで(話した言葉で)申し訳ないですけど「厳粛な気持ちです」ってお伝えしたことがあるんですが、国宝を預かるような気持ちですね。

--なるほど。

大張社長 今までも、前職でも数百人の支店を率いて※いましたので、重要な意思決定をしていくとか、たくさんの人を預かること自体よりも、やはりそのプロレスというものが今ピンチに立たされていて、それを何とか守り抜いて、「過去最高レベル」まで持ってくという、そういう意味での高揚感があります。だから、あたふたすることも意外となく、より実務的なところでヒリヒリするような思いをしてきたので、非常に落ち着いて客観的に会社の現状を見ています。

※大張社長はNTT時代に支店や組織を指揮していた。

--そうでしたか。

大張社長 経営企画部長に求められているのは、先を見て今までやってきたことの方向性を正しく変えるといった、社長に近い役割なんじゃないですかね。そもそも、経営企画部があるプロレス会社って少ないかもしれないですけど(笑)

--そういう意味ではブシロードという親会社が背景にあっての、その組織立てというのがしっかりと構築されたんじゃないかなという風には思います。

大張社長 もう一つ言うと、新日本に入るためにブシロードに入ったので「新日本に入れてください」とお願いした結果、「じゃあブシロードで」と言われたということです。ブシロードだけにいた期間って1ヶ月しかないんですよ。

--そうなんですか。

大張社長 そうなんですよね。いろんな誤解があります。「アメリカ子会社の社長だ、ブシロードの人だ」っていうのは、実態として全部、という。決して間違ってはいないんですが。

--新日本プロレス入るためにいったんブシロードを経由したという感じなんですね。

大張社長 一回グループの全体を見るために1ヶ月ですよ。あそこにはエンタメを生んで伸ばすノウハウがある。その仕掛けとキーパーソンを知る期間でした。今でも何かとヒントを得ていますね。ノウハウは無断借用しています(笑)

--最初から新日本プロレスというのが既定路線として決まってたということなんですね。

大張社長 もちろん。

--大張社長はプロレスが昔からお好きだということは伺っているんですが、新日本プロレスという団体で当時ファンだった時から、今度はその団体の長になるということなんですが、その気持ちはいかがなもんなんでしょうか?

大張社長 うーん、ファンじゃなくなっ…、いやファンじゃないとは言えないか…ファン目線というのは、どこかで大事にしておきたいんですけど。

--はい。

大張社長 ファンかと言われるとちょっと違いますよね、自分の中ではもう既に。だからいつかね、先ほど言いましたが、過去最高を見据えているので、皆様にもすぐに見えてくるので、そこまでみんなの力を結集する役割で持ってきて、その時、振り返りたいなと思いますね。その過去の自分のファンだった少年にですね、小学生のね、大張高己くんにですよ「お前よくやったな」と。その時に戻れたらね「お前将来、よく見とけよ今のうちにプロレスを」と(笑)

--「新日本プロレスの社長になる」とは少年時代には思わないですよね(笑)

大張社長 でも実はレスラーになりたかったんですよ。小学校3年生かな?小学生の時の将来の夢はプロレスラーって書いてましたね。

--そうなんですか。当時から長身だったんですか?

大張社長 そう、地域や環境的にも、あとは遺伝的にも私はバレーボールに向いていたので。全国区で強い地域、広島県広島市なんですけどね。広島って、野球とバレーなんです。カープとJTなんです。子供の頃は「専売公社」っていいましたけど。スポーツやるならその二つが花形、その分、競争率もすごく、バレーには徹底的に全ての面を鍛えてもらいました。

--なるほど(笑)

大張社長 だからスポーツとして一番向いてたのがバレーボールだったからやってましたけど、18歳で大学入るじゃないですか。22歳で会社入るじゃないですか。その時、1大学と1社しか受けてないんですよ。それは別に推薦とかがあったわけじゃなくて、もうまともに真正面から受けました。なぜ1つしか受けなかったかというと「落ちたらレスラーになろう」と。落ちてなれるもんじゃないですよ。だけど落ちたらレスラーへの道を進もうと思っていました。アニマル浜口ジムの場所もしっかり確認しに行きましたし。

--そこまで(笑)

大張社長 新日本のプロレスラーになろうと思って。だから、大学や会社は、あわよくば「ちょっと落ちないかな」と。

--(笑)

大張社長 たまたま受かったんですけどね。

--そういった理由付けも踏まえて1社にしか絞らなかったということなんですね。

大張社長 駄目だったらもう、本当に行きたい会社・学校に落ちたということで、もしここが駄目だったら自分は勉強や仕事に向いてないと。で、自分の体格やアスリート面の能力を活かして、プロレスラーとして準備しよう。1年なり2年なり、わからないですけど。

--人生の別れ道ってすごいですね。なんかすごく分岐点になって、そっちの方がうまく受かって、その道が一つの自分の道になったってことですね。

大張社長 スポーツという意味ではバレーの実業団(V1リーグ)の選手でやって、25か26で辞めたんですけどね、私のポテンシャルと経済情勢を踏まえるとバレーでは食えないと、いつの日からか分かっていて。NTTなので、とにかく目の前にあるITというそれこそ今後数十年は続くだろう成長領域で社業に専念したくて。まさかね、そっから先でプロレスにまた近づいていけるとは。ドームで試合見てて、両国で見てて、後楽園で見てて、思わなかったですからね。

--人生の道しるべだなと思いますよね。まさか当時その選択から、一度こっちに行ったものの実はまたこっちで繋がっていったっていう…

大張社長 やっぱりバレーボールは自分がやるスポーツとしてやってましたけど、子供の頃からずっと、プロレスとは並走してきたんです。バレーで試合のホイッスル鳴るじゃないですか。その前に自分の頭の中でテーマ曲流れたりしてましたからね。

--やはりテンションを上げるために。

大張社長 そうですね。私はセッターだったんですけど、こういう局面では、選手や観客を鼓舞して雰囲気と流れを持ってくるためにはどう動いたらいいのかとか。このセットは負けるにしてもどんな負け方なら次のセットにつながるのかとか。あと仕事でもそうじゃないですか、プレゼンテーションするにも、どうやって入っていって、どうやって話して、振舞って、選手のリング上の入場シーンであったり、マイクであったり、そういうものってやっぱり自分でビデオテープが擦り切れるほど見て学んできてるから、無意識でも知っているし、それで育ってると思うんですよね。だから自分の根幹にはずっとプロレスってものがあって、もう皆さんに本当おすすめしたいんですけど「プロレスを見ると、どれだけ教育に、人生にいいか」って。御社の方々もそういう仕事をされてるから分かると思うんですけど。例えば有名人のプロレスファン率、異様に高くないですか?もっと多くの人にプロレスの教育価値を知って頂くべきで、それも重要なミッションです。

--本当にそう思います。私も年齢は48歳なんですけど。本当にプロレスから人生を学んできたっていうその言葉にすごく共感します。当時はちなみに誰がお好きだったんですか。

大張社長 いつを「当時」にするかによりますけど、最初に見た時は、でっかくて強い人、猪木さんと…もう「さん」てつけるようになった(笑)

--昔はね、アントニオ猪木って呼び捨てで言ってたのに(笑)

大張社長 猪木さん、ホーガンとか、あの辺はすごいなと思いましたよね。で、タイガーマスク選手も出てきて、大きくないけどこんなプロレスあるんだなっていう。こうテレビの中、夢の世界の選手たちが出てきて。そうですね、そこから入ってきて。長州さん、藤波さん。小学生ぐらいだと思うんですけど、自分にもバレーの師匠みたいな人が常にいるわけじゃないですか。めちゃくちゃ厳しい人達でしたけど。師匠が持ってるもの、全てを1人の選手が受け継ぐことはないんですよ。師匠のこの面はこの選手、この面はこの選手が受け継ぐっていうのが実は存在するんです。強さを長州さんが受け継いで、藤波さんがうまさを受け継ぐみたいなところは、プロレスはとても際立っていて、子供ながらそんな分析をしながら、面白いなって思ったんすよね。それを「藍よりも青し」なわけじゃないですか、それぞれの領域で極めている。その先の熱狂は闘魂三銃士。先日の蝶野さん、G1お越しいただきましたけど、もう熱烈なラブコールを送らせていただいて。

--あ、そうなんですね。

大張社長 この環境下でのG1ですから。歴史に残るG1ですよ。早いうちからテレビ朝日さんにお願いして。で、何とか、と。なったのはそこの背景がありました。そしてあのリング上でのコメント、感極まりました。直接も申し上げましたが、この場をお借りして再度お礼を申し上げます。闘魂三銃士は自分がやっぱりバレーボールというスポーツの領域で生きていこうと思ってたんで、その中で見ると超人的なその運動能力があって、それぞれ3人とも。だから、その面でも憧れたんですよね。武藤選手は特に際立っていましたね。

--華やかさがやはりすごいですよね。

大張社長 そうです。ある程度スポーツを極めていこうとすると、他人の動きの良さ、運動神経の良さってぱっと見でわかるようになります。武藤敬司選手って、とんでもないじゃないですか。

--あの2度目の凱旋帰国してきた時は本当にビックリするような動きしてましたよね。

大張社長 癖がないし、多分どんなスポーツやっても、行けるっていう。野球選手だったらメジャーで活躍したんだろうなっていうのを重ね合わせて見てました。今の新日本のトップ選手は皆、そのレベルに来ていると思いますが、当時はそういう選手が非常にレアだった。

--それぐらいプロレスがお好きだという、そういう大張社長だからこそ、これからの新日本プロレスを託されたんじゃないかなと思います。

 

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