【日高郁人&青木いつ希インタビュー】4年4ヶ月ぶりに島根県に凱旋し『ご縁の国しまねツアー』を開催!

■「島根県にゆかりある技でどんどん勝って名前を広めていきたい」――島根県のふるさと親善大使『遣島使』となったプロレスラー2人が語る夢と使命

――青木選手、改めて遣島使就任おめでとうございます!

青木「ありがとうございます~(照)」

――遣島使についてお聞きしたいと思います。まず、日高選手は遣島使としてどのような活動をしてきたのでしょう

日高「プロレスを通じて島根県を全国にアピールするっていうのはプロレスラーにしか出来ないことなので。僕のフィニッシュホールドは“石見銀山”って言うんですけど、これも当時の島根県知事だった溝口善兵衛さんに直接許可をいただいてそれを名乗ってます。他にも、僕の地元の益田市にある清流日本一の“高津川”ってのを技の名前にしてるんですけど、僕がその技で勝つたびに島根にゆかりある名前が流れるわけで。僕はコスチュームに『ご縁の国しまね』って入れてて……今は青木も入れてるんですけど、そういうプロレスラーとしてプロレスラーにしか出来ない方法で島根県をより多くの方に知ってもらいたいと。そういう私の思いに応えてくださったのが『秘密結社鷹の爪』の作者のFROGMANさんでして。FROGMANさんは毎年島根県で大会をやるたびにオリジナルの吉田くんを描いていただいて、応援をしていただいています」

――青木選手はまだなりたてほやほやですが、遣島使のプロレスラーとしてどのような活動をしていきたいですか?

青木「自分も技名に塵輪や鍾馗、大黒落としなど地元・島根県の伝統芸能である石見神楽の演目を技名にしているので、そういう技でどんどん勝って行って。これ、正直読みづらいですよね。だからその読み方とかを話題の1つとして、『これなんなの?』から『石見神楽っていうのがあって』って地元の伝統芸能のこととかも伝えられたらと思います。あと、島根県でどんどん大会をやっていく中で東京の人が島根に来るっていうのは、大阪に行くとか名古屋に行くとかって話とは全然違うので……。『もし島根に来るんだったらこういうご飯屋さんがありますよ』とか『こういう水族館がありますよ』とか、大会開催の機会に皆様に告知して行って、そんなに大きい力にはなれないかもですけど、少しでも地元の経済を回すために微力でも力になれたらと思ってます」

 

■「この子は俺が責任持って育てないとダメだな」――初代タイガーマスクに憧れて島根を飛び出した男と、運命に翻弄されて人生のドン底に落ちてしまった女が“親娘プロレスラー”になるまで

――改めてお2人のプロレスラーのルーツについてお聞きしたいと思います。まず、日高選手はなぜプロレスラーになろうと思ったのでしょうか

日高「私は“初代タイガーマスク”佐山サトル先生に憧れて子供の頃からプロレスラーになりたくて。父は昨年の夏に他界したんですが、当時は『お前みたいな小さい奴がなれるわけない』って頭ごなしにダメと言われて。なので1度就職をしたんですけど……こういう言い方をしたら誤解が生まれるかもしれないんですが、入社して4月2日に研修をして、寮に帰る電車でおじさんたちが疲れた顔で電車に乗ってるのを見たんですよ。それを見て、『このままだったら俺もこうなるんだな』って思って。それだったら悔いのない人生を送りたいと思ってもう1度プロレスラーを目指すことにしました。まあ、ぶっちゃけ今は僕が疲れて電車に乗るおじさんになってるんですけど(笑) プロレスラーを目指すとなったら、まずは親父の説得だと思って。このまま行ってもまたダメって言われるから体重を増やして身体をデカくしたら親父は納得するだろうと思って、パンクラスismの伊藤崇文とかと当時練習をしてて、20kgくらい体重を増やしてまた親父のところに行ったんですけど、また頭ごなしに『ダメ』と言われて。もう実家を離れるしか無いと思ってたら、兄貴が僕のいないところで親父に話してくれたみたいで。それで急に態度が変わって『頑張ってみろ』って。それで家族の理解が出来て、格闘探偵団バトラーツでプロレスラーとしてデビュー出来たと。これが1997年ですね。……これ、実に青木が生まれた年です(笑)」

――安定した生活を捨ててまでプロレスラーになる覚悟には畏敬の念を抱きます

日高「僕が入ったのが大きい企業の系列会社だったんで、条件も良かったんです。それを1年ちょっとで辞めて、フリーターになりながら伊藤たちと毎日プロレスラーを目指して練習する生活になったんで、お金無いじゃないですか?(笑)『ああ、前のとこいたときにはあったんだけどなぁ』とか思ったりもしましたね。バトラーツに入ってからはバトラーツの寮に住ませてもらってたんで、住むところとちゃんこはあったんです。次の月にデビューするってことが決まったときに、石川雄規さんが『日高、お前も来月デビューだからプロレスラーだ。だから給料だ!』って初めて渡されたんですよ。それがね、〇万円だったんですよ(笑)でもね、過去現在で1番嬉しい〇万円でしたね。プロレスラーとして初めていただいたお金でしたから。これがね、『北の国から』だったらそのお金は使わないんですけど、ソッコーで使いましたね(笑)」

――青木選手も子供の頃からプロレスラーになりたかったのでしょうか?

青木「私の場合はすごく特殊で、プロレスラーになる気は全く無かったんですよ。父親の影響でプロレスを見るのは好きだったんですけど、体育の授業が大嫌いで、運動が嫌いで、器械体操の授業は単位ギリギリまで休むくらい嫌いだったんです。ちょっと話が長くなっちゃうんですけど、大学の入学のために島根県から大阪に出たんです。アパートも借りて、あと数日で入学式……ってときに、父親が1枚書類を出し忘れてて大学の入学が取り消しになったんですよ(笑)大学に取り合ってみても結局ダメで、1年間フリーターになったんです。
私、大学もプロレスに関する小論文を書いてAO入試で受かったんです。そういうのもあって、『やらかしてしまった……』って気持ちになってた父親が『この子はプロレスのお手伝いをしたら元気になるかも』と思ったらしくて。そんな時にたまたま見つけたのが私が元いた団体で。父親がそのときの代表に事情をメールで話して『お手伝いをさせて元気を出させてあげてください』と勝手に頼んでいて。父親も大阪のことなんか知らないんで、本当にたまたま目についたその団体に連絡して私がそこに挨拶に行くことになってて。そんな話は知らなかったんで、私は(笑)
それで、父親が勝手なことしたから謝りに行こうと思ってその団体の大会に行って代表の方とお話をして『学校はこれからもう1回頑張ろうと思ってます』と伝えたんですけど、『プロレスの方はどう?』って聞かれて。『運動も苦手というか嫌いだし出来ないのでスタッフならやりたいです。前は演劇部にいたので、音響とか照明なら出来ます。もし練習して出来るものならレフェリーとかやりたいです』と伝えたら、『それも良いけど、選手になってみないか?』と言われて。もう正直、1年間フリーになって自暴自棄だったんで……。
これはあんまり言っていいことじゃないですけど、『大きい怪我をしてもなにがあってもあんまり後悔しないだろう』って思ったんですよ。でも、初めての練習に参加したら、大学がダメになっちゃってからの1ヶ月くらいで久しぶりに楽しいと思えたんですよ。今思うと、そういう初心者の人を楽しませる用な練習メニューだったんですよね(笑)プロレスの試合でよく見る動きみたいのをいっぱいやらせてもらって(笑)それで1年間もあれば向き不向きも分かるだろうと思って楽しく練習生を始めたら、色んな方の手助けをいただいて。デビュー3ヶ月前にはREINA女子プロレスさんに出稽古に行かせていただいたりして、2017年4月になんにも出来ないけどデビューはしました。
大学の入学が取り消しになったことで全部の悪いものを削ぎ落としたかのようで、プロレス界に入ってからは人との出会いにメチャクチャ恵まれて。すごく色んな人が気にかけてくださって、女子プロレス団体さんに出させていただいたり、大阪にある団体さんとか、他にも『大阪大会のときは呼ぶね』って言っていただいたりとか。他にも、そこの各団体さんの先輩方にアドバイスを沢山頂いたり気にかけて頂いたり、大阪にいるタコヤキーダーさんとかがいっぱい練習を見てくださって。それで、最終的に日高さんに拾っていただいて、『私はプロレスラーです』って言って許される程度にしてもらいました(笑)」

――“本物”のプロレスラーになったわけですね

青木「いや、まだなりかけですね(笑)」

――それにしても数奇な運命での出会いですね

青木「ジョースター家もビックリ(笑)島根県の血の運命(さだめ)が引き合わせてますよ!」

日高「僕ね、この子と初めて会ったときに、僕と同じように目が細いから『これは石見地方の顔なんだ。そうか、この子は俺が責任持って育てないとダメだな』と思ったんです。そしたら、お父さんが横浜出身だったんですよ(笑)」

青木「しかも同じ石見地方の岩﨑永遠さんメッチャ目がデカいから(笑)たまたまウチらが目が細いだけですよ」

日高「なんなら俺の兄貴と母親も目ェデカいですからね」

青木「でも、結局それで親娘ばりに似てきたんで、“親娘タッグ”ってのが出来上がったんですよね」

――運命的な出会いをされたわけですが、青木選手から見て日高選手はどういう存在なのでしょう

青木「師匠だし、社長だし、偉い人で、プロレス界の中でもキャリアも実力もあって、今まで色んなベルトを獲って、東スポの(プロレス大賞の)最優秀タッグチーム賞を受賞したりとか。スゴい人なんですけど、自分にとって師匠で社長で父親なので(笑)自分が多分、今の青木いつ希でいられるのは日高さんのおかげなんです。でもね、これ1回言われたんですけど、私がやる『よろしくお願いしまあああああす!!』とかも、別にあんまり別に好きじゃないっていう(笑)」

日高「言いましたね(笑)」

青木「あんまり好きじゃないけど『まあ、お前の個性だから……』みたいな感じで。私個人の性格とか、適正とかを見て育ててくださってて。なので、本当に師匠で社長で父親で、偉い人だけど、プロレス界の中で一番自分のことを分かってくれてて。自分を自分らしく育ててくれる人。……やっぱ父親ですね。だから『うん』なんて返事が出ちゃうんですね(笑)」

日高「友達かよ!」

(※インタビュー開始前の会話の中で青木が日高に「うん」とうっかりタメ口で返事をしてしまい、日高が面食らう場面があった)

青木「これ、どうでもいい話なんですけど、自分がスケジュールの話でどうしてもどうにかしたい事があって、『どうにかならないんですか?!』ってメチャクチャ駄々こねたことがあって。でも日高さんは怒るんじゃなくて『でもね、これはこれこれこうだからどうにもできないから、その気持ちは分かるんだけどね』って説得してくれたんですよ。それで私が最終的に『じゃあもういいです!』って諦めたら、『やめろよ!そういう捨て台詞は?!』って(笑)最近心を開きすぎたがゆえに反抗期を迎えていて……」

日高「迎えるなよ!」

青木「『お前は昔より心が強くなったけど、強くなりすぎて最近はちょっと横柄だ』って言われました(笑)ホントに父親なんですよね。こないだ実の父親と会ったらちょっと人見知りしちゃいました(笑)こないだ島根に帰ったとき、父親と日高さんが挨拶する場面に初めて出くわしたんですよ。そしたら、いつも一緒にいるほうが日高さんなので、自然と日高さんの方に寄ってて父親に対してずっと頭下げてました(笑)実の親より全然会ってますからね」

――逆に、日高選手から見た青木選手はどういう存在なのでしょう

日高「何ヶ月か前にふと昔の写真とかを見たんです。青木が最初に参戦したときの写真とか。会って話はしたけど、そのときは試合も見たこと無かったんで。そのときのことを思い出すと『プロレスラーとしてはひどかったな』って思い出して(笑)そのときを思えば、すごく成長してくれたなと思ってますよ。ショーンキャプチャー所属になって、最初は大阪から通ってて、その年の秋に完全に東京に引っ越してきて。2020年11月15日にCLUB CITTA’で関東から島根をアピールするための『ご縁の国しまねツアー』をやったんですよ。その前に9月に大阪で興行を組んだんですけど直前に青木がコロナになって、青木のための大会なのに青木が出れないって事態が発生して(笑)でもこの11月の大会のときには青木がいて、2人だとすごく精神的に楽だなと思って。
豊田真奈美さんは僕の同郷の先輩で、『ご縁の国しまねツアー』の最高顧問をやって下さっていて。この日の青木の試合を見ていた豊田さんが色々注意をしてくださって。僕は将来的に豊田さんからジャパニーズ・オーシャン殺法を青木に伝授してほしいっていうのがあったんですけど、そのときには『遠いな、道のりは』と思いましたね。売店の手伝いとかでたまに青木の試合を見に行って、試合で明らかに他の選手よりも体力的に劣っている姿を見たりとか。本人も分かってるからそういうときには落ち込んでるんで、そういうのを見て『育成をしなきゃな』と思ったんですけど、2022年の8月にWAVEの大会で初めてタッグを組んだんですよ。組んで試合をしてみたあとには『青木、お前意外と頼りになるな』って言いました。僕の求めているものに向けて追いかけて成長してくれているなと感じました。
その翌年にはまたWAVEさんに参戦してタッグのベルトを獲って、しばらく防衛戦もやっていきました。僕は色んな人とタッグチームとしてやって来ましたけど、男女で組むのもほぼ初めてだったから。今までのチームとは違うもの、お客さんを楽しませるもの、自分を納得するものが出来ると感じましたね。成長してくれましたよ。僕は性格が細かいのに対して青木のプロレスは大雑把なところがあるんで、そういうところは緻密にさせたいなと。
あとは、僕が東京スポーツ社制定の最優秀タッグ賞を藤田ミノルと獲ったんですけど、これで歴史に名を残せたと思ってるんです。歴代の受賞者は引退したあとも名前は残っていくんで。青木にもそういう歴史に名を残させたいと思います」

――先程青木選手からは「師匠で社長で父親」と言葉がありましたが、青木選手のことを娘のようには感じますか?

日高「弟子で社員で……秘書的な役割をしてくれればいいなと思ってますね。このホカクドウも今年から青木に店長やってもらってるんで。株式会社ショーンキャプチャーって、お互いプロレスラーですけど、プロレス興行もあって、高円寺のフレンジってジムもあって。それ以外にも会社の仕事も色々あるので。そういう中で青木に完全に任せられる状態になったなと思って今年から店長をやってもらってるんで。だから、そういう点で社員としてもすごく力になってもらってますね」

➡次ページ(日高と青木が語る全対戦カードのみどころ解説)へ続く

◆プロレスTODAY(LINEで友達追加)
友だち追加

Pages 1 2 3