“女版・大仁田厚”ミス・モンゴルが波乱万丈のプロレスデビュー30周年! 印象に残ってる試合は「デビュー戦、大仁田さんとのシングル、全日本での電流爆破」
今やすっかり“女版・大仁田厚”の異名が定着したミス・モンゴルが10月25日でデビュー30周年を迎えた。まさに波乱万丈といえるモンゴルにこれまでのプロレス人生を振り返ってもらうとともに、今後の展望を聞いた。
モンゴルがプロレスを好きになったきっかけは、国内のプロレスではなく、全米女子プロレス(LPWA)だったというから驚きだ。1989年から1992年に存在した米国の団体で、ジャパン女子プロレスとも交流。レジー・ベネット、メドゥーサ、バンビ、マグニフィセント・ミミ、デスピナ・マンタガス、マリア・ホサカ、バンビなど著名な選手が所属した団体だ。
全米女子プロレスに憧れたモンゴルは中学生のときからプロレスラーになることを志望していたが、親からは「高校に進学してくれ。卒業したら好きにしていい」と言われたという。そんななか、高校1年のときに、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)のなかの企画「女子プロレス予備校」でオーディションを実施することを知り、受けることを熱望。そのとき、親は「記念になればいいやって思ったのでしょう。いいよって、飛行機代も出してくれて送り出してくれました」という。
オーディションに合格し、その収録は月に1回程度。全日本女子プロレスの秩父の合宿所で、山本小鉄さん指導の元でトレーニングを行った。約1年間の練習の末、最終的に「スター誕生」のような形で、各団体がほしい候補生に札を挙げる形式。当時あった女子団体は全女、JWP、LLPWの3つ。女子部が存在したのがFMWで、4団体が参加するなか、FMWとLLPWがモンゴルに札を挙げた。その企画の参加者でプロレスラーになったのは、モンゴルのほか、元気美佐恵、シュガー佐藤、市来貴代子の4人だった。
元々FMW志望で、実は札を挙げられる当日以前にFMWオフィスに直談判に行っていたモンゴルは迷わずFMWを選択。通っていた高校は工業高校で生徒は男子が多く、体育も男子と一緒。「男子にも負けたくない」との思いが強かったことも、男女混合団体を選んだ理由につながったようだ高校2年のときに学校を中退して上京。「今は地方にも団体があって、北海道にもあるけど、当時プロレスラーになるためには東京に行くしかなかった。高校を辞めて上京するしかなかった」。FMWに入って、まずターザン後藤の面接があったが「なぜFMWに入りたかったのか?」と聞かれたモンゴルは「有刺鉄線デスマッチをやりたいから」と答えたという。後藤は「女子はやらない」と返答したが、その後、工藤めぐみらの女子選手もやるようになり、「私は先をいってるな」と痛感したそうだ。
そして、埼玉・川越の寮に入ったが、同期もいなければ、後輩もしばらく入らず、雑用に追われた。「下が一人だから、全部やらなきゃいけないけど、そのときはそういうものだと思ってた。何をもって大変なのかが分からなくて、当たり前だと。もう1回やれと言われたら無理だけど。普通の団体より、セコンドワークも多くて。(ミスター)ポーゴさんがブーツで殴って、ブーツが飛んだら取りに行かなきゃいけないし、場外乱闘多いしで…」。
苦労の連続だった練習生生活は実に1年8ヵ月に及ぶ。大仁田厚の2度目の引退後、1995年10月25日、新潟・リージョンプラザ上越で鍋野ゆき江を相手に新生FMWの新人第1号としてデビュー。偶然にも大仁田の誕生日だった。デビュー戦について「今は事前にデビューする日を発表するけど、昔はデビュー時期が近付いてきたら、『シューズ、コスチューム作っとけ』と言われるんです。それで『オマエ今日デビューだから』と突然来る。今シリーズかな?とソワソワしながら、巡業行くんですけど。今日だと言われて。試合前、待ってる自分が鮮明に記憶に残ってて。ゴングが鳴らされたら、曲もなく走って行かなきゃいけないのでソワソワしたのをいまだに覚えてます」と語った。
そのわずか10ヵ月後、シャーク土屋率いるヒール軍団・猛毒隊に加入し、リングネームを本名の上林愛貴からミス・モンゴルに改めた。リングネームの候補はほかに、ジンギスカン・カンバヤシ、レディ・モンゴルがあったというが、ミス・モンゴルをチョイスした。女子のヒールのトップだったコンバット豊田が引退し、ベビーフェイスとのパワーバランスが崩れていた時期で新人の上林が抜てきを受けた形だ。「当時、女子の若手では中山香里さんや石倉由加利さんがいましたが、みんな小粒で。私は横に大きいから、やられててもかわいそうに見えない。ベビーに見えない感じがあったからヒール志向はありました。チャンスはあるなって。ベビーでは居場所はないなって思ってました。クビになるのが怖かったからいうなりでした」。
新生FMWになって、工藤が引退して、女子部は最終的に土屋、クラッシャー前泊、中山、モンゴルの4人だけになった。そんななか前泊、中山がケガで欠場して、人数的に女子の試合がなかなか組めない状況に陥っていた。














