『10.7 昭和の新日本プロレスが蘇る日』開催直前企画 ケンカしてこそ道は開く! “過激な仕掛け人”新間寿 独占インタビュー。
- 新間寿のある計略
同大会ではBI砲が結成されたが、その中で新間は馬場よりも猪木の人気があるようにするために作戦を考えた。
「入場はアントニオ猪木が先。馬場さんがあとということで新日本は承知した。ヨーシ、それなら声援だけは馬場さんに勝ってやろうと思ったんだよ。それでうちの息子を呼んで応援のアルバイトを集めてこいと。40人くらいアルバイトが集まった。入場の時はそれほど猪木コールはなかったけど、ブッチャーとやり始めたら『イノキ、イノキ』の大コールですよ。馬場さんの時は静かなもんですよ(笑)。しかし、あとで息子がバイトにお金を払っているのを見つかってね。馬場さんが東スポに『新間はアルバイトにお金渡して声援させていた』と文句を言った。しかし、東スポの高橋編集局長は『そんだけ新間は猪木と新日本のことを思っているんだ。一枚上手だったな』ということで終わったんだ」
- 映像をバックに当時を語ろう
トークバトルは試合映像をバックに語り合うが、全体の司会進行はテレビ朝日「ワールドプロレスリング」のアナウンサーで昭和の新日本プロレスの語り部舟橋慶一氏。そして坂口、藤波、タイガー、小林邦、北沢など各氏が登場。
「6m40㎝のリングの中には語りつくせないくらいの夢があり、嫉妬もあり、怒りも、悲しみも、喜びも数知れずあった。それが昭和の新日本プロレスだった。映像をバックに選手たちと当時の心境や裏話を聞こうじゃないか。
それと言っておきたいことがあるんだ。最近、よく猪木イズムという。違うよ。私たちの時代は猪木イズムなんて言わなかった。燃えよ闘魂だったんだ。そして新日本は燃える闘魂だった。その闘魂というのは喧嘩という挑戦する心だったと思う。
アリ戦が終わった時の私の家族は恐々と遠くから私を見ているような気がしたんだ。私は燃えてボロボロになっていたからね。しかし、絶対に燃え尽きなかった。また蘇ってきた。燃えよ闘魂とは燃え続ける闘魂のことなんだ。
いまになって、過去を振り返ることができたけれども、これまで家族を巻き込んできたけど、わが妻はこうして81歳になった私がいまも「10・7昭和の新日本プロレスが蘇る日」を開催して青春時代を蘇らせて、元気な姿を見ているのが楽しみのはずですよ。
10月7日は金曜日。昭和のワールドプロレスリングは金曜夜八時からでした。
さらに1957年(昭和32年)10月7日は後楽園球場でアントニオ猪木の師匠である力道山とルー・テーズの世界選手権があった記念すべき日。この記念すべき日にみなさんも私と一緒に元気いっぱい昭和の新日本プロレスを分かち合い、楽しんでください!」