‟獄門鬼”マサ斎藤さん75歳で逝去

パーキンソン病を発症し懸命のリハビリと闘病生活を長く続けていたプロレス界のレジェンド、マサ斎藤氏(本名・斎藤昌典、享年75歳)が14日に死去した。

解説時のユーモラスな一面とは違いリング上では鬼気迫る表情で、どんな大型選手相手でも決して退かないファイトスタイルが特徴であった。

通夜、葬儀・告別式は家族と関係者で執り行う模様。

 

◆来歴(ウィキペディア参照)

・オリンピック出場
明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)。

・プロレスデビュー
大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木、豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めた。しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。

・アメリカへ
アメリカではミスター・サイトーまたはマサ・サイトーをリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。その後はフロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦、数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなった。

日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助、サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また、同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦している。その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。

・維新軍参加と服役
1982年から長州力が結成した革命軍、そして維新軍(後のジャパンプロレス)の参謀格として活躍したが、1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件(パテラ曰く、偶然訪れたマクドナルドで、解雇された事を恨んだ元従業員による投石があった際にその場に居合わせただけ)の逮捕劇に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため、総領事館にも受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った(罪状のうちほとんどが無罪だったが、パテラと一緒に現場にいたことや女性警官を投げ飛ばしたため有罪となった)。しかし、自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国。

・巌流島
1987年10月4日、巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加した。

1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得[4]。2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。

・引退
第一線を退いた後はワールドプロレスリングの解説者を務め、初期にはインタビュアーを兼任することもあった。1999年2月14日、日本武道館において自らが発掘したスコット・ノートンと引退試合を行った。この引退試合でも巨体のノートンをバックドロップで投げるなど往年のパワーを見せつけた。

2003年に新日本プロレスを離脱し、長州力らとWJプロレス旗揚げに参加する。WJプロレス時代、記者会見の席に現れた斎藤は体に振戦が見られ、発語にも難がある状態になっており、以降身体的不調が知られるようになった。WJプロレスはその後1年余りで崩壊する。

・健介オフィス入り〜晩年
2005年、斎藤を慕っている佐々木健介が「ファンにマサさんのことを忘れてもらいたくない」として健介オフィス株式会社化の際、斎藤をアドバイザーとして招聘。記者会見には斎藤も姿を現している。斎藤は寮が無かったジャパンプロレスに入門した当時の健介を自宅マンションに居候させ、「身長がない分、横に筋肉をつけろ」とアドバイスするなど、師匠格の存在であった。

2006年にはAWA時代のタッグパートナーであったニック・ボックウィンクルとの対談が雑誌掲載されるなど、長年の激闘の後遺症はあるものの健在なところを見せた。その後は佐々木夫妻の住む埼玉県吉川市に住居を移しており、中嶋勝彦らと会食している写真がオフィスのブログに掲載されることもあった。また、週刊プロレスの北斗晶の対談コーナーにも登場した。

2008年には、健介オフィスの新人たちにバックドロップの技術を教授している姿が、FIGHTING TV サムライのSアリーナで放送された。健介オフィスに所属していた西川潤は斎藤を慕っており、2011年頃の西川のブログでは、一緒に食事をしたなどの当時の近況が紹介された。

2014年から2015年にかけて、ダイヤモンド・リング道場の閉鎖後は故郷の東京に転居したことや、2000年よりパーキンソン病の治療を受けていること、2013年に障害者手帳の交付を受けていたことなどを明らかにした。

2016年12月2日、大阪城東区民センターで行われた元新日本プロレス取締役の上井文彦プロデュース興行「Strong Style History~Go for Broke!! Forever~」で約4年ぶりにリングに登壇。介助なしではリングに上がれないほどだったが、海賊男の強襲に応戦した。

2018年7月14日、死去。75歳没。

 

◆獲得タイトル
NWAサンフランシスコ
NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):2回(w / キンジ・シブヤ)
NWAハリウッド・レスリング
NWAアメリカス・タッグ王座:6回(w / キンジ・シブヤ)
NWAビート・ザ・チャンプTV王座:1回
NWAオールスター・レスリング
NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):2回(w / ジン・キニスキー、デール・ルイス)
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回
NWAフロリダ・タッグ王座:5回(w / イワン・コロフ×3、ミスター・サト×2)
NWA USタッグ王座(フロリダ版):2回(w / ミスター・サト)
NWAフロリダTV王座:1回
サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング
NWAアラバマ・ヘビー級王座:2回
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回
ワールド・レスリング・フェデレーション
WWFタッグ王座:2回(w / ミスター・フジ)
アメリカン・レスリング・アソシエーション
AWA世界ヘビー級王座:1回
新日本プロレス
NWA北米タッグ王座(日本版):1回(w / ヒロ・マツダ)
IWGPタッグ王座:2回(w / 長州力、橋本真也)

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