【追悼コラム】テリー・ファンク、フォーエバー!!

日米両国マットで大活躍したレジェンド「テキサスブロンコ」テリー・ファンクさんが亡くなった。享年79歳だった。体調が悪いということは聞いていたが、ショックを受けた選手、関係者、そしてファンは数えきれない。

やられてもやられても、何度でも立ち上がる不屈の闘志。感情を大爆発させる全身全霊の試合に、引き込まれたものだ。


(写真①お茶目なテリーさん 素敵な笑顔だった/撮影:柴田惣一)

ファンはもちろん、実況アナや解説者も熱くさせた。日本テレビの全日本プロレス中継で、実況の倉持隆夫アナウンサーと解説の故・山田隆さんの掛け合いが忘れられない。

「テキサスブロンコ! テリー・ファンク! テリー・ファンク!」と倉持アナが絶叫。頭を前後させヘッドフォンが外れるかと思うほど、力がこもっていた。

「山田さんはどうご覧になりますか!?」という倉持アナに「テキサスブロンコ、テリー・ファンクですねぇ」と山田さん。

「山田さんご指摘の通り、テキサスブロンコ、テリー・ファンクであります!!」という倉持アナのまとめの後は、精根尽きたのかしばし沈黙するという実況・解説パターンが、今でもファンの語り草になっている。

それまでは「凶悪外国人、大挙来襲!」などというポスターや宣伝カーでの煽情的な文言のように、日本人選手=善、外国人選手=悪という対立構造で、勧善懲悪のような試合が多かった。

力道山が戦後の日本に元気と勇気を与えるために、外国人レスラー、特に大柄のアメリカ人選手を招聘し、空手チョップでバッタバタとなぎ倒して拍手喝采を浴び大人気になったことから、それ以降も受け継がれて来た日本のプロレスの伝統と言っても良いかも知れない。


(写真②マスカラスとテリーさん/撮影:柴田惣一)

外国人選手でベビーフェイスとして最初に特に人気を博したのは、ミル・マスカラス、そしてドリー・ファンク・ジュニアとテリーの兄弟、ザ・ファンクスだった。

冷静沈着な兄・ドリーとやんちゃな弟のテリーさん。個性の違う兄弟が組んだタッグは爆発的にファンの支持を集めた。

特にブッチャー&シークとの抗争は熱狂的な人気で、チアリーダーのような10代~20代前半の若い女性ファンを会場に呼びこんだ。お揃いのユニフォームや法被を着用し、ポンポンを振って応援。個人ではなくグループで応援する姿が目立ち、20人を超える大応援団もあった。

今のようにネットで何でも手に入る時代ではない。当時のファンに話を聞くと、ユニフォームも手作りだったという。色付きのヒモを束にしてヘアブラシでとかして縦に細かく裂き、お手製のポンポンを作製。「ヘアブラシはすぐダメになりましたね」と苦笑い。

テリーさんと話したいからと英語の勉強に力が入り、おかげで学校の成績もアップしたという効果もあったとか。「すべてが楽しかった。青春の思い出です」と懐かしそうに振り返る。

女性ファン同士のいがみ合いも勃発したが、何とテリーさんが間に入り「みんな僕のファンでしょ。みんなファミリー。仲良くしなくちゃダメ」と優しく諭していた。

その後、進学や就職、結婚などでプロレスから離れていた時期もあったが、来日したテリーさんに、赤ちゃんを連れて会いに行った。「ワ~オ! 素晴らしいね」とテリーさんは抱っこし、頬を寄せ「君もファミリーだ」と、とびきりの笑顔で鼻歌まじりにあやしてくれたという。普段は人見知りの赤ちゃんなのに泣かないどころか、キャッキャッと手足をバタバタさせ喜んだそうだ。


(写真③兄・ドリー㊧とのファンクスで大暴れしたテリーさん/撮影:柴田惣一)

テリーさんの訃報に「ショックで涙が止まらない。あの頃にタイムスリップしました。目を閉じれば、スピニング・トゥホールドが流れ、最強タッグなどで活躍していた若き日のテリーと、それを応援している私がいます。昔のままの姿で」と涙を流した。

いったん、リングを離れた1983年8月31日、東京・蔵前国技館の引退試合での絶叫が忘れられない。「テリー・ファンク、フォーエバー!!」。テリーさんはプロレスファンの心の中に生き続ける。

【特別寄稿・柴田惣一】

➡次ページ(【動画】WWE殿堂入りを果たしたテリー・ファンクの忘れがたいキャリアと人生を振り返る )へ続く

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