【ジャイアント馬場】伝記絵本『うえをむいてあるこう』2.19発売、親族が込めたメッセージとは?

③理咲子さんから見た叔父・ジャイアント馬場さんはどんな存在

――そして理咲子さんから見た叔父・ジャイアント馬場さんというのは、出会いは叔父さんという感じだったと思うんですけど、接していく上でだんだんジャイアント馬場というプロレスラーの偉大さというのが分かってきたんじゃないかなと思いますが、その辺りはいかがでしたか?

理咲子さん 先ほど公俊が申しましたように馬場さんは新潟ですし、元子の方は兵庫県出身なので、この東京エリアにそんなに親戚って多くないんです。うちの元々の家族がずっと、学校が東京だったので。というところで、それこそ私が子供で孫みたいな存在ではあったので、本当に叔父で。叔母がジャイアントサービスという会社をやっていましたでしょう。そのときに1番初めの名刺って河合元子なんですよね。叔母がアメリカに行っているときに、私がまだ小学校の頃、クリスマスだったりするとアメリカからプレゼントの箱が届くわけですね。その当時、小学校なんていうと今から60年近く前の話ですから「こんなものがあるんだ。こんなに綺麗なものがあるんだ」とときめいていて。お礼状もちゃんと叔母に書いているわけです。叔母の筆跡って結構特有なんですね。同じ筆跡なのに途中から、伊藤元子から河合元子と変わったときがあって。母に「どうして元子おばちゃまは河合元子に変わったの?」と。母がそのときに『いや、筆跡は似ているけど違う方よ。代理で誰かが送ってくださるようになったのよ』と言われたのが、私も小学校高学年だったのですごく不思議で、何が起きているんだろうと。だんだん大きくなるにつれ、そんなに仲がとても良い両親じゃないのに、時折2人で肩を寄せ合って女性誌を見ているわけです。妹と「パパとママ、何をやっているのかしらね」と。こっそり「ママがどこに隠すか見ていよう」と。

――あとで見ようと。

理咲子さん そうそう。で、しわしわになったページを開くと、たぶん『明石の何とかで』。「これってもしかして元子おばちゃまのこと?」みたいなことがあったんです。でも聞いちゃいけないし言ってはいけないと。14歳だったときに学校が四谷だったので赤坂に住んでいる叔父と叔母の家も近くて行くようになって、学校の帰りに『六本木の事務所にいらっしゃい』と言われて『あなたの叔父さんよ』と紹介されたのがきっかけだったので。だから本当におっしゃっているように叔父としての出会いなんですね。そのあとプロレスの会場には行きますけど、小さすぎて。NWAのコンベンションにラスベガスにも連れて行ってもらいましたけど小さすぎて、プロレスというものにあまり触れていないんです。私の場合は。

――ちょっとした旅行みたいな感覚になるんですかね。

理咲子さん そうなんです。たぶんその叔母のことがあるからだと思うんですけど両親が、今思えば、同じ世代の女子の中でも絶対的にプロレスなんて見せてもらえたことがなかったので。だから全然分かっていないんですよ。だから力道山さんというのも知らなかったですし。それくらい我が家からはタブーだったと思うんです。というところで「えー、そうなんだー」という感じからスタートして。

――馬場さんを見られたときってインパクトすごく大きくなかったですか?

理咲子さん でも叔父なのでないんですよ、そういうインパクト。「あ、この方、叔父なんだ」と。

――やっぱり叔父という頭で最初入っちゃうんですね。

理咲子さん そうなんです。それで「こんにちは、初めまして」ということだけだったので。大学卒業して社会人になるときに両親が最後の転勤でまた東京からいなくなったときに、結婚までは恵比寿の家にずっと居候していたので、まだ家電しかないとき『あなたの家に電話をかけると叔父ちゃまが『(低い声で)もしもし』と言ってみえてびっくりするのよ』なんて。そんな普通の叔父です。そんな感じでした。ただ深夜になって、ノートがあるんですけどカードを考えておられたり。声かけられないなとか。そういうときはすごくナーバスだったり。叔母が声をかけても『ちょっとうるさい』的なことがあったり。穏やかだけど、プロレスということにおいていかに、ということはすごくあるんだなと。

――やっぱり社長レスラーとしていろいろなもの、団体やレスラー、社員やお金の部分も考えないといけなかったから余計に大変なときもあったと思います。公俊さんから見てジャイアント馬場さんというのはどんな存在ですか?

公俊さん 最初、自分はジャイアント馬場というよりは馬場正平。自分は「大きいじぃじ」と呼ばせていただいたんですけど。お家に行くと遊んでいただいたりしたんですけど、逆にジャイアント馬場と感じたときは小さい頃、会場に行かせていただいたときにちょうど馬場さんがウォーミングアップをしていたので、いつもの感じで「大きいじぃじ」と声をかけようと思って近づこうとしたんですけど、その瞬間、何か怖いオーラというか殺気じゃないけど、そういうものを感じて。

――近寄りがたいようなオーラ。

公俊さん そうです。自分は4、5歳なんですけど、そのときに馬場正平からジャイアント馬場に変わった瞬間なんだなと思って。

――肌で感じたんですね。

公俊さん オンとオフじゃないけど、そういう変わった瞬間を感じたときで、何かこれは近づいちゃいけないなと思って。表情も、やっぱりいつも優しい笑顔な馬場さんなんですけど、全然。今すぐ戦うぞ、じゃないけどそういう顔をされていて、もう近づけないなと。30年以上前の記憶になりますけど、それをいまだに覚えています。

――やっぱり戦いに行く気持ちを幼心に感じたんでしょうね。

 

④昨年10月8日、元子夫人の又甥にあたる公俊さんが全日本プロレスでレフェリーデビュー


©全日本プロレス

――そして公俊さんが昨年10月8日に全日本プロレスでレフェリーデビューされました。正直、私もびっくりしました(笑)ご自身的にはどんなキッカケだったのですか?

公俊さん キッカケは、団体事情とかでレフェリーも少なくなった部分もあったりして。そんな中で『レフェリーをやってみないか』と木原さんに声をかけていただいて。木原さんもみんなにみんな声をかけるわけではないので、選んでいただいたことに感謝ですし、せっかく声をかけていただいたので、それはやってみようと。やってみないと分からない部分もありますし。自分自身もこのようにプロレス業界に携わらせていただいていて、自分の知見が広がればなと思って。リングに立つことによって、レスラーがどういうことをお客様に見せようとしているかだったり、なかなかリング上じゃないとお客様の表情を見ることはできないですけど、どういうときにお客様が笑顔になったり燃えているのかを見るきっかけになって。なかなかまだ余裕はないですけど、日々頑張ってやっておりますね。

――個人的にはちょっと嬉しい気持ちになりました。

公俊さん 本当ですか。

――僕からすると、驚きと同時に嬉しいなって。馬場さんの血縁関係の方がリングに入っているというのは、オーナーが変わってもある日の全日本プロレスを思い浮かべるというか。それはすごく思ったんですよね。

公俊さん デビューするキッカケという言い方は変ですけど、まだ京平さんが現役でいらっしゃったからという部分もあるかもしれないですね。京平さんは0歳、1歳くらいの赤ちゃんからのお付き合いで。言ってしまえば知り合いのおじさんみたいな感じの方だったんですけど、なかなか京平さんにこういう形で携わることもないなと思って。京平さんから直接指導いただけたというのは自分にとっては嬉しかったなと思いますし。今までずっと自分のことを公(きみ)くんと読んではいたんですけど、レフェリーになってから公俊と呼ぶようになったので、京平さんは京平さんで自分のことをちょっと弟子みたいに見てもらえたのかなというところもありますね。

――実際にリングでレフェリーデビューしたときって、どんな思いでしたか?

公俊さん いやもうデビューした日は真っ白でしたね。真っ白でしたし、あと自分はデビューですけど周りにいる方はもちろん選手だったのでその日の試合を全力で戦うわけです。周りのお客様は試合を見るために高いチケットを買って頂いているわけだから。どうにかしてご迷惑をおかけしちゃいけないと、迷惑をかけないことだけを考えてやるようにはしました。

――なるほど。お母様の立場からして、息子さんがレフェリーデビューしたことに関してどういう風に感じましたか?

理咲子さん 嫁といるときに『ちょっと話があります』と。『僕、レフェリーデビューすることに決めました』と。

――相談じゃなく決定報告なんですね。

公俊さん そうですね。言われてからそんなに迷いはなかったですね。

理咲子さん えーと思いましたし、デビューさせていただくことを聞いたときよりも私としては、山形大会の会場には伺っていませんけども、初めてのデビューの写真をあとで見たときに、大森さんを裁かせていただいているわけですよね。大森さんの手を上げさせていただいている。大森さんは赤ちゃんのときから公俊を知ってくださっている、というところから、大森さんを偉そうにも最後手を上げて。何が起きているんだろうと混乱もあったりとか。

――なるほど。そこを理解するまでにちょっと時間がかかったんですね。

理咲子さん そうなんです。ただ、やはり『大きいじぃじ、人として1番尊敬して憧れの存在。だから僕は全日本プロレスのレスラーになる』と言って。そのあとも『大きいばぁばを僕が守ります』と言いながらやってきました。でもラグビーをやったので横はがっちりしましたけど、身長が足りずということでレスラーになることは諦めました。ということがあるときから何十年も経ち、叔母がジャイアント馬場の権利は公俊に託すというところにおいて、この時代の流れの中でレスラーという立場ではないものの、レフェリーとしてリングに上がらせていただくという、ある意味夢を叶えさせていただいたことにもなるのかなという思いにおいては感無量になったり。いろいろな思いがありましたね。思わず「大きいじぃじ、大きいばぁば、公俊がレフェリーとして今日デビューさせていただきました」とか「大森さん、こんな風にしているんです」とか。叔母のホームでの話とか『私は公くんにやってもらいたいんだ』というのがわーっと走馬灯のように湧いてきた瞬間でもあったかなと。

――そういう部分ではやっぱり天国にいる馬場さんと元子さんが、そういう形で見守ってくれているんでしょうね。

公俊さん そうですね。笑ってくれてればいいんですけど(笑)

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