【ZERO1】<田中将斗25周年特別インタビュー②>弾丸戦士、田中将斗誕生の歴史を振り返る!(新日本参戦、火祭り制覇、CHAOS加入、弾丸ヤンキース結成、VOODOO入り、世代闘争、今後について)
デビュー25周年記念大会<2018年9月30日 (日) 東京・後楽園ホール>を控えたプロレスリングZERO1 弾丸戦士・田中将斗選手を独占インタビュー!
過去・現在・未来を振り返ったロングインタビューを全2回に分けてお届けします。
【2005年 新日本プロレス参戦】
–そして2005年には、新日本プロレスに参戦されます。金村キンタロー選手や黒田哲広選手らとタッグを組み、ライガー選手らと戦ったわけですが、こちらはいかがでしたか?
田中:僕のスタイルは変えなかったので、今まで通りでしたね。ただ戦ってみて、メジャーとインディーの差は感じました。インディーって駄目なやつは本当に駄目なんですよ。メジャー団体にはこいつはどうしようもないなっていうのはいなかったですね。駄目なやつはいるんですけど、どうしようもないというのはいなかったですね。
–ご自身が憧れだった初代タイガーマスクがあがっていたリングですが、そちらに対する思いとかはありましたか?
田中:別になかったですね。新日本にあがることに関しては、同じ新日本にあがれるっていう思いはなかったですね。長州力さんとかテレビで見ていた方とやるときは特別な思いがありますが、団体にはなかったですね。
【2006年 ZERO1-MAX「火祭り ’06」初制覇】
–その翌年には「火祭り」で悲願の初優勝をされますが、優勝されたときの気持ちはどうでしたか?
田中:格別な思いでしたね。それまでに何年か優勝候補と言われていたけど優勝できていないという悔しさもあったし、肩を脱臼して途中欠場ということもあったので、いつか優勝しなくてはという思いがありました。
–優勝する前と優勝した後で気持ちの面で変わったことはありましたか?
田中:特別に変わった思いというのはなかったですけど、やっと取れたという喜びはありましたね。これからどうにかしていなかくてはならないという思いとかはありませんでした。
–では心境の変化はあまりなかったと?
田中:そうですね。ただ、チャンピオンとしてタイトルマッチを組まれたらメインとか外せないなということはありましたが、そのほか特別に何かということはなかった気がしますね。
【2007年 体重を絞り始め、現在は90kg(以前は108kg)】
–そして体重をぐっと絞られましたが、なぜあのとき急に体を絞られたんですか?
田中:アメリカに行ったときは体を大きくして帰ってきたんですよね。あっちではトレーニングして、ジャンクフードを食べて、筋肉もあったけど脂肪もついた大きな体だったんですよね。でも肩の手術をして半年間休んだ時に、何かインパクトをつけて帰ってこなきゃなと思って、技を身につけて帰るとかなんか変えなきゃいけないかなって。あと、久しぶりの試合は息が上がりそうな気がしたんですよね。
なので、休んでる間にランニングを多めにしたりして。そうすると体が絞られてくるんですよね。そしてリングにあがったら、『かっこいいカラダ』という雑誌があるんですけど、そこからもう少し絞ってくれたら表紙にできますよと言ってもらったんですよね。今までは腹筋とか見えなかったんですけど、脂肪を減らしたことで腹筋が見えてきたし、じゃあもう少し頑張ろうと。
–本当にあのときはすごいインパクトでした。
田中:やってよかったです。そしてそれまでは結構ローリングエルボーとか持ち上げたりするパワーボムとかも結構使ってたんですけど、今はあまり重い選手とか体重が減った分上がらなくなったので、違う必殺技をということで「スライディングD」が生まれましたね。
–弾丸戦士って感じですよね。スピードがすごいですもんね。
田中:ラグビーやってたときも走ったりぶつかったりというスポーツだったので、それが活きてるんじゃないかなって思います。
【2009年 中邑真輔率いるヒールユニット「CHAOS」に加入】
–2009年に今WWEにいる中邑真輔選手がいるユニット「CHAOS」に加入されます。同時期に「G1 CLIMAX」にも出場されていますが、このときのお気持ちはいかがでしたでしょうか?
田中:気持ち的には「火祭り」と「G1 CLIMAX」は同じ時期に結構やっているので、この2つどちらも出たらおいしいなと。週プロとか誌面でもどちらにも写真が載ることになるし、他団体にも出たりしてたので、「今週の週プロ、田中さんばっかりでしたね~」って言われたときがありましたね。そういうので名前を覚えてもらったり、写真がたくさん出たりすることが宣伝になりますよね。
–「CHAOS」に加入してみてはいかがでしたか?
田中:仲のいい人達が集まっているなという感じでしたね。僕も石井ちゃんとか新日本に上がる前から仲良かったし、邪道さん外道さんはFMWを一緒にやめた中だったし。だから「CHAOS」に入るのも必然的だったのかなと思います。普段のまんまでいましたね。
–中邑選手はいかがでしたか?
田中:クールで、めっちゃしゃべる方ではなかったですけど、好青年でしたね。
【2010年 IWGP戦(王者)真壁刀義 / 2011年 IWGPインターコンチネンタル戦(王者)MVP】
–新日本プロレスでは、IWGP戦で真壁選手と激しい試合をやり合ってますね。
田中:まあまあいい試合と言われましたけど、取れなかったですからね。取りたかったっていうのが正直な気持ちです。でも今思えば、新日本プロレスを見てプロレスラーになりたい、相手はタイガーマスクというのが夢だったので、新日本プロレスのメインを任されたというのは嬉しいし、すごくいい経験が出来ましたね。
–翌年にはIWGPインターコンチネンタル王者になられました。こちらは思い出はありますか?
田中:2代目だったので、初代を取りたかったっていうのがありますね。
–初代でいうとNEVER無差別級の初代王者ですよね。
田中:それはそれで嬉しかったですね。歴史で1番目で初代ってつくので。2代目より初代のほうが嬉しいじゃないですか。
–他団体の選手が初代ってすごいですよね。
田中:でも最初は若手の底上げというような感じって聞いていたのに、僕出てるし、石井ちゃん出てるし。そのコンセプトとは少しちがうかな?
でもメンバー見るとこれはとれるなって感じはしました。
–気持ちいいですよね。
田中:気持ちはもちろんよかったですね。その中でチャンピオンとして本間とメインを張ったりしましたし。IWGPヘビーでも棚橋くんや真壁さんとメインをやりましたけど勝てなかったので。
でもNEVERで後楽園ホールのメインをやって勝ち名乗りをあげられましたからね。それは大きかったです。それに石井ちゃんや本間も元をただせば新日本所属じゃないですからね。
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