『ブルーザー・ブロディ30年目の帰還』<斎藤文彦氏インタビュー②>世界に衝撃を与えた刺殺事件から30年!不世出のレスラーの知られざる人生を著者が語る
【新日本プロレスでのボイコット事件】
–そういうあれもあってボイコットとかもあったんですね。
斎藤:遠征先に向かう移動中の電車から降りちゃう、新幹線から降りちゃうってすごいですよね。そんな選手はもういないじゃないですか。
–そうですね、あのときはもう大騒ぎでしたもんね。そしてボイコットしたシリーズ最終戦で藤波さんが猪木さんから初ピンフォールを奪う試合がありました。
斎藤:ドラゴンスープレックス・ホールドでね。1回だけね、あとにも先にも。そこはもう猪木さんのプロデュース能力というかね、そんなこと言ったら怒られるかもしれないけど。
舞台裏まで見せちゃうっていうところまで新日本が追い込まれた。ブロディはそれでも新幹線を降りて東京まで勝手に戻って京王プラザからチェックアウトして、スーツケースを引っぱって歩いて行って自腹でお向かいのセンチュリーハイアットにチェックインして。そんなレスラーいないですよね。
だから相棒のジミー・スヌーカも気を遣って一緒に行っちゃった感じなんでしょうけどね。
–ギャラはもちろんあるものの、それももらわないで帰ったって書いてありましたもんね。ギャラじゃないプライドの部分が非常に高い。
斎藤:自分に自信あるからいずれ向こう(新日本)から言ってくると。実際、新日本からアプロ-チがあって、翌86年(昭和61年)に1度だけ戻ってきてるんですよね、新日本に。
そのときは猪木さんとブロディの大阪城ホール、60分1本勝負。今まで反則裁定とか両者リングアウトだったのが、60分時間切れ引き分けなのが最大限譲歩みたいな。そのときに前年の12月にもらわなかったギャラも全部もらって帰ったらしいんですけど。
–そういえばハワイか何かで。
斎藤:ネゴシエーションしたんですよね。それで和解して、その年の12月のタッグリーグにはまた来るからって仮契約していって、今度はブロディが裏切るんですよ。すごい話ですよね。
–もう見れないのかなって思っていたところに全日本に。すごく嬉しかったです。
斎藤:1987年(昭和62年)の後楽園ホールでの『最強タッグ』公式戦では一瞬だけブロディとハンセンが接触してるんですよね。それはさっき言ったブロディ&スヌーカ対ハンセン&ゴーディで戦っているから。ブロディとハンセンは接触するかなぁとみんなが期待していた。
–本当にちょっとだけだったんですけど、あれで期待感が更に広がりましたね。
斎藤:僕らとしては、思ったとおりの展開で、最初からロープワークがあって、ブロディがキングコングビッグブーツをやろうと思うと、ハンセンがそれをすり抜けて、そうしたらハンセンはいきなり左からのラリアットのモーションに入った。今度はブロディがそこをすり抜けて、ものすごいスピードのロープワークからリング中央でふたりがショルダーブロックでドン!!両者ダウンからコロコロコロコロって転がって場外にいっちゃうという。今のでおしまい?っていう。
–でも次への期待感はすごかったですよね。
斎藤:武道館でシングルマッチだったでしょうね。で、その年の『世界最強タッグ』も、それももしもの話なんだけど、ジャンボ鶴田&ブロディ組、天龍&ハンセン組っていう新コンビを結成させてね。
鶴龍コンビも分けちゃうし、ブロディ・ハンセンも分けて、ブロディの新パートナーはジャンボだろうと。ハンセンの相棒は天龍だろうと。実際翌年、ハンセン&天龍組だけ実現してるんです。
ブロディの気が変わらない限りは、直前にやっぱり嫌だって言い出さない限りは、ブロディ&鶴田組はあったんでしょうね。ブロディ&鶴田組なんて強すぎますよね。
–やばいですね。スタミナモンスターって感じですよね。
斎藤:だから全勝優勝しちゃうんじゃないかっていう。ちょうど、ファンクスが衰えてきた時期だったので。
–この本はそういう意味では、歴史書としてみなさんに読んでもらいたいですね。
斎藤:40代前半から50代後半の方にとっては少年時代のリアルタイムの体験です。活字プロレスというのはいずれ淘汰されていくものなのかもしれないし、今は実際『週刊プロレス』というのを読まないプロレスファンもたくさんいますから。
そういう新しい世代のファンのなかには、後何年か経つと、ブロディの名を聞いたこともないって層も現れるかもしれないけど、そういう人たちにもぜひ読んでほしいと思いますね。
ブルーザー・ブロディを知って、もっとプロレスの奥の奥まで踏み込んでほしいですね。
–わたしもぜひみなさんにおすすめしたい一冊です。
斎藤:こういうタイプのレスラー、ビジュアルを似せた人はここ20年くらいの間に何人か出てきたかもしれないけど、ハートの部分でブロディ的なレスラーっていないじゃないですか。
–本当の意味での、タフなネゴシエーターで、全世界を回って。各テリトリーで救世主的な言い方もされていますよね。
斎藤:そうですね、ビジネス(観客動員)が悪いところ、ブロディだけが有名であとはその他大勢でインディー的な試合に出ると、ブロディ1人の人気で3,000人から5,000人の観客を集めちゃう。場所によっては1万人クラスのお客さんを集めちゃう。それがよかったんでしょうね。
【その他の斎藤文彦さん著書】
–斎藤文彦さんというと、ほかにもたくさんの書籍を出されていますが、プロレス関連でいうと一番書籍を出されているんじゃないですか?
斎藤:いまもまた、2,3作、新しいテーマで書きはじめています。
–そうですか。それに連載コラムもいろんなところでやられてますし、海外の実績でいうと日本の第一人者という感じで尊敬します。
斎藤:ありがとうございます。でも80年代、90年代当時の週プロを読んでくれていた読者層も現在は若くて40代後半、あるいはそれよりも上なので、まあこれは活字プロレスの文化の中でのお話で、どうだろう、ネットから始まった世代はこういうプロレス観、こういうプロレスとの接し方、こういうプロレスの感じ方、僕たちの世代がどんどんプロレス人間になっていったころのあのプロセスがいまはないのかなって思うんですよね。
–今でいうと、昨日の試合の結果をネットで見てっていうだけなので、そういうプロセスはないかもしれませんね。
斎藤:あとは僕たちが『週刊プロレス』を作ってきて、別に僕たちが特別だったとは言わないけれど、プロレスマスコミの仕事の修行みたいな場があって、あるハードルを越えてはじめて自分で書いたものが活字になったっていう通過儀礼があったけど、いまはネットで何かを書くと、変な話、今日からだって書けちゃうじゃない?ネット上の画面の中で記事になっているものといわゆる活字との見分けがつかない時代ってことだと思うんですよ。
どうだろうな、だからプロレスマスコミっていうものはこのまま崩壊するのかなとも思うし。すでに崩壊しているのかもしれない。僕らの後輩の世代の記者っていっても週刊ゴングとか週刊ファイトっていう専門誌もないし、スポーツ新聞で言えば、内外タイムス、レジャーニューズとかファイトも含めて、そういうものも全然ない。『プロレスTODAY』っていうのはネットの中にあるプロレス雑誌ですよね。
こっちにみんな移行するかというとキャリアのあるライター仲間が意外と移行してなかったりするんですよ。
–僕からすると本を読みながら、プロレス観を育ててきた人間なので、斎藤さんの今連載されているようなものだとか、延長線上に感じて楽しいですよ。
斎藤:僕らが若手記者だった頃、後楽園ホールに行っても両国国技館に行っても記者の人数が多かったですよね。プロレスを扱う活字媒体も多かったし、カメラマンの数も多かったし。
–今と比べて全然違いますか?
斎藤:全然違いますね。東スポがいて、日刊スポーツがいて、スポニチがいて、それからプロレスだとデイリーですね。ビッグマッチになると、駅売りのスポーツ新聞各社の記者はほとんどいたし、Numberみたいな一般誌の記者もいたし、プロレスをよく扱うブブカみたいな雑誌の人たちもいたし、専門誌の人も1人じゃなくて各社3、4人いたので、両国国技館のマスコミ控室なんか行くと、すごい人数でしたね。“ウース、ウース”とおたがいにあいさつを交わすみたいな。
プロレス村みたいなものがあったとしたら、90年代までは”村人”の数も相当多かったですね。
–今のほうが全然少ないんですね。
斎藤:少ないです。後楽園ホールではいまでも取材記者用の机が一応2列ありますね。それはその日の試合の担当者、いますぐ記事を書く人がそこに座って、メモを取ったりするんで、その日の担当じゃない人や僕らはあまり座らないんですね。
いつも立ち見とか、階段の横とか通路に立ってたりっていうのは慣れてましたね。門馬忠雄さんやお亡くなりになった菊池孝さんのような大ベテランが来たら、「座ってください」みたいな感じで僕らは席を空けたりしていました。
今は名前も媒体名も知らない人がポツンと座ってたりとかね。見覚えない人が座ってたりするんですよね、僕らが古くなったのかもしれないけど。
–たしかに、プロレスを扱う専門誌は別ですけど、90年代の記者さんたちの記事を誌面で見かける機会は少なくなりましたよね。
斎藤:いまは週刊プロレスの中でも、活字の週刊プロレスと、週刊プロレスモバイル班で一応スタッフが2チームに分かれてますからね。
モバイルのほうは試合結果を早く出さなくてはいけないので、試合結果専門って感じで、あと寸評と。それだけ。速さが求められる。
現場でパソコンを打ちながらメールを送っていくっていう作業。でもそれがスマホでそのままのスピードで読まれていくかっていうのは分かりませんよ。
もうちょっとプロレス人間が、僕らみたいなプロレス人間ですね、コアなプロレスファンには活字プロレスが必要だと思うんですけどね。
–今まで『プロレス入門』とかたくさんの書籍を出されてますね。
斎藤:それはプロレスライターになったときから、『プロレス入門』っていうそのものズバリのタイトルで本を出したかったんですね。文字通りプロレス入門の本を出すっていうのがひとつの目標だったんですよね。
–これいいですよね。ツー(下巻)もありますもんね。
斎藤:ビートルズのベストアルバムで赤盤・青盤ってあって。それにならって、表紙が赤と青の上下全2巻なんですね。
これの1作前に『みんなのプロレス』っていうのもあって、それはホワイトアルバム。
–なるほど。でも書籍をこれだけ出し続けられる理由ってなんでしょうか。
斎藤:プロレスライターになりたかったってことですかね。活字育ち、子供のころは、月刊ゴングと月刊プロレスを両方とも読んでた。
プロレスの本だけを読んでたってわけじゃないけど、体にしみついちゃってるのはそういうものなのかなとも思うし。活字と映像両方があってこそのプロレスって僕はそう思ってます。
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