【編集長コラム】「昭和のプ女子」


※Tシャツ姿でファイティングポーズを決める兄ドリー

「プ女子」こと「プロレス女子」が各団体の会場にあふれている。かつてのプロレス会場といえば、男性ファンが大半を占めていた。昭和の映像を見ると、リングの周囲はスーツ姿ばかりだ。

ただ「プ女子」は、昭和の時代にもいた。1970~80年代に、全日本プロレスで、日本人選手をしのぐ人気を誇ったドリーとテリーのファンクスの勇姿がよみがえる。

兄弟揃ってNWA世界王者に君臨した実力に加え、沈着冷静な兄ドリーとやんちゃな弟テリーの兄弟愛がファンのハートをわしづかみにした。

当時のザ・ファンクスのファンは、若い女性が中心だった。彼女たちは、お揃いのハッピを着用し、手にはチアガールが持つようなフリフリのボンボンを持っていた。

藤波辰爾、初代タイガーマスクの人気とはまた違った「高校生を中心とした若い女の子のグループが大挙来襲する」といった非常に珍しい現象。その頃、女性人気を誇った故ジャンボ鶴田さんでさえ「凄い人気だね~」と、うらやむほどだった。

ファンクス親衛隊は、各グループで身に着ける色や応援の仕方やコールも違い、中には数十人の勢力を持つ巨大応援団もいた。時にはそのグループ同士が会場で火花を散らし、小競り合いを繰り広げることもあったという。

見かねたテリーが、ファンが出待ちをしているホテルのロビーで「みんな仲良く」と注意したところ、いがみ合いはなくなった。それほどテリーの影響力は大きかった。

母性本能をくすぐるタイプなのか、兄のドリーの何倍も弟のテリーの人気は凄まじかった。テリーとのツーショットを撮ってもらうのに、ドリーに撮影を頼むファンが続出。ドリーは嫌な顔一つせずに応じていたが、時には「俺はテリーのカメラマンさ」と肩をすくめて見せたりもした。

ブッチャー、シークのフォークで刺されながらも、その傷口を指さしながらのたうち回り、大振りのパンチを繰り出すなどの独特のファイトスタイル、日テレ・倉持アナの「テキサスブロンコ! テリー・ファンク! テリー・ファンク!」という絶叫も相まって、その人気は社会現象にまでなった。

「テリー・ファンク、フォーエバー!」という名セリフと共に一度は華々しく引退したテリーだが、数年後に復帰。だが、歓迎ムードで異を唱えるファンはほとんどいなかった。

高校生だった女性ファンが、大人になって結婚し、子どもが生まれた。その子どもを復帰したテリーに見せに来るという「プロレスお宮参り」が盛んに行われていたのを目の当たりにし、当時の人気の凄まじさを再認識した。

「テリーになりたかったけど、テリーにはなれないな・・・」後年、ディックスレーターが、ボソッとつぶやいたのも忘れられない。

ドリーは今でもレスラーとして来日し、代名詞スピニング・トゥ・ホールドを披露し、往年のファンを喜ばせている。

現在の「プ女子ブーム」を目の当たりにして、ファンクス時代を改めて思い出した。

※テンガロンハットが似合うドリー

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